哲学者ニーチェが「道徳を最も嫌った」論理的理由 自分自身を誠実に打ち出すことこそが望ましい

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ニーチェ自身は、道徳による自己正当化をいちばん嫌います。力と力の関係であれば、力で勝負するべきだと考えるのです。力と力の勝負なのに、力以外のものに訴えて、力のある人間を引きずり降ろす。これは許容し難い行為であり、自分たちを欺いていると言うのです。

相手を引きずり降ろすのは自分たちが支配者側につきたいからであるのにもかかわらず、力のない自分たちは優しい人間であると言って、道徳心を持ち出すのです。道徳を批判するときにニーチェはこのような言い回しを使うのですが、それは、自分自身を誠実に打ち出すことこそが望ましいと考えているからです。

だから、力で対抗すべきなのに、それを偽り、自分は力がないと言って力のある人を批判しながら、その裏ではみんなで寄り集まって支配者になろうとする。それをまた隠れた“権力への意志”であると考えるのです。

生物界のすべてが「力の増大」を目指す

“権力への意志”、つまり力を増大させたいという意志は、どんなものにもあると考えます。それは決して人間だけでなく、生物界のすべてが力の増大を目指すというのがニーチェの生命観なのです。そして、それらを全面的に肯定しようという発想が”超人”という概念に繋がり、力の増大を認めようとするのです。

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それを表面上は否定して、むしろ道徳心を持たせようとするのは虚偽であると考えます。そういう嘘つきは良くないという発想です。

これはニーチェがキリスト教を批判するときも同じで、欲望を批判、あるいは否定するキリスト教者は嘘つきであるとみなします。

欲望も力として伸ばせばいいというのが、ニーチェにとっては望ましい態度で、欲望があるのであれば、その欲望を誠実に出すことこそが正しいと考えたのです。

“畜群”が道徳を利用して支配者側を目指すというのも、権力への意志、すなわち力の増大の1つではありますが、ニーチェにとっては、同じ”力の増大”でも許せるものと許せないものがあります。

その基準となるのは、偽装されているかどうかで、ニーチェがいちばん嫌うのは偽装であり、力は誠実に増大させるべきであると考えます。これこそが“超人”を目指すということの1つの意味でもあるのです。

岡本 裕一朗 玉川大学 名誉教授

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おかもと・ゆういちろう / Yuichiro Okamoto

1954年福岡県生まれ。九州大学大学院文学研究科哲学・倫理学専攻修了。博士(文学)。九州大学助手、玉川大学文学部教授を経て、2019年より現職。西洋の近現代哲学を専門とするが興味関心は幅広く、哲学とテクノロジーの領域横断的な研究をしている。著書『いま世界の哲学者が考えていること』(ダイヤモンド社)は、21世紀に至る現代の哲学者の思考をまとめあげベストセラーとなった。ほかの著書に『フランス現代思想史』(中公新書)、『12歳からの現代思想』(ちくま新書)、『モノ・サピエンス』(光文社新書)、『ヘーゲルと現代思想の臨界』(ナカニシヤ出版)など多数。

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