哲学者ニーチェが「道徳を最も嫌った」論理的理由 自分自身を誠実に打ち出すことこそが望ましい

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「あなたは何のために生きているのか?」と問われたとき、「明日、これをやるから」「明後日にこれがあるから」みたいな感じで、1つずつには目的や意味があるかもしれません。しかし、その一つひとつではなく、それらのものを超えた全体としての“生きること”そのものの目的や意味がなくなるというのがニヒリズムの発想になるわけです。

とはいえ、「意味がないのであれば死んでしまえば?」と言われたときに「では死にます」という答えには絶対になりません。

基本的に意味がなく、同じことの繰り返しであるという“永遠回帰”を生きるために、ニーチェが打ち出した1つのモデルが“超人”になります。彼の発想の中では“力”が非常に大きな位置を占めていて、すべてのものは力の関係の中にあると考えます。

そして、私たちが知識を得るのは、自分の力を増大させるためであり、自分の力の増大は各自の楽しみや面白さに繋がると考えています。自分自身の力を発揮することができなければ、いかなる状況も楽しむことはできませんし、逆に、いかに楽しむことができるかというのは、いかに自分がその中で力を発揮できるかということにつながると考えるのです。

弱者が自己正当化を行うのが“道徳”

この力を“増大する”というのが重要で、いかなる問題においても、自分自身の力を増大させることが良いことであるとして、“力の増大”の極限状態として“超人”を考えたのです。ニーチェは、物事を認識する場合も力の関係で理解します。それは、道徳の問題も同じです。道徳の場合、彼は”強者と弱者”を例に出し、弱者が道徳を作り出したと言います。

なぜ弱者が道徳を作るのかというと、強者と弱者が対立した場合、弱者は力で挑んでも対抗できないため、力で対抗することをあきらめて、みんなで寄り集まることで、これを“畜群”とニーチェは表現するのですが、強者を引きずり降ろそうとするのだというわけです。

金や力のない自分たちこそが正しい人間である、力があるからといって何様だ、そんな“ルサンチマン”、すなわち妬みを持ち始め、力のある人間を引きずり降ろすことによって、自己正当化を行うのが“道徳”であるという発想なのです。

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