豊かな日本社会で「心を病む人」が増えている理由 「エゴの連鎖」を止めれば心穏やかに生きられる
新入社員がすぐに会社を辞めてしまうという話が当たり前に聞かれるようになりましたが、私たちの「苦痛に対する耐性」は、過去最低の状態になっているように思います。自分の思いどおりにならないことに対して、不幸なくらいにキャパシティーが低下してきているかもしれないのです。
自然の中、村の中で生きていれば、1人ひとりの思いどおりになることのほうが少なく、不合理なこともある中で、それぞれが折り合いをつけながら生きていたはずです。
その環境の中で、人々は「お互いさま」「おかげさま」と心と心で支え合い、「あの人があのときに支えてくれたから、今回は全力で助けてあげよう」と、自然に相手を思いやるような「人情の循環」があったかと思うのです。
しかし今では、人情に代わって法律やルール、サービスが整備されたため、いろいろなことが「思いどおりになってしかるべき」という感覚の人が増えています。
もちろん今の社会において、ルールやサービスは不可欠ですが、それらが人の心と心のつながりから生み出される「ありがたいもの」ではなく、「当然の権利」としてとらえる感覚を生み出しているのも否めないのです。
「私のこの権利は守られてしかるべきである」という感覚で、ちょっとしたことでも相手を責めたり訴えたりするようになり、相手の立場や気持ちを推し量り、思いやり、尊重するという気持ちが希薄になり、心がすさみやすくなってしまっているのです。
同時に、自然の驚異や不合理極まりない要素を取り除こうとする、強い使命感や信念、生きがいといったものを見いだしにくくもなり、これが「苦痛耐性」を低くしている大きな要因になっている気がします。
その結果、こんなにも便利な世の中であるにもかかわらず、自死を選ぶ人は後を絶ちません。これは、構造的な問題ととらえても過言ではないと私は考えています。
みんなで共有する「必要性」の消失
こういった深刻な問題構造は、「快適に生きるためのインフラを作る」という時代においては存在しませんでした。先人たちは、不合理な君主に悩まされることのない、安定した生活を築けるように、懸命になって文明を切り拓き、命をかけて平和な状況を作り上げてくれました。
そしておそらく、その時代には「必要性の共有」がありました。たとえば、日本の高度経済成長期には、一致団結してこの目標を乗り越えよう、みんなではい上がって、もっと生活をよくしようというモチベーションが共有されていました。
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