「言ったでしょ」が職場でも家庭でもNGな根本理由 「ネイビーシールズ元指揮官」が教える解決法
子どもはほどなく気づくはずだ。ヘルメットは不快だ。ヘルメットは暑い。ヘルメットは鬱陶しい。そしてなにより、「ださい」。こうして子どもは親の目が届かなくなったらすぐに、頭からヘルメットを外すようになる。「言ったでしょ」は、親がそばにいなくなれば何の重みももたなくなるのだ。
「言ったでしょ」と言うかわりに理由を説明
だが、単に「言ったでしょ」と言うかわりに、なぜヘルメットをかぶってほしいのか、その理由を子どもに説明していたらどうだろう? ノーヘルでスケートボードをしていて転倒し、頭を打った場合の危険を説明していたら?
あるいは、スケートボードで転倒して頭を打ち、脳に重い障害を負った結果、歩くことも話すことも食べることもできず、病院でずっと寝たきりになっている子どものところに連れていったら?
あるいは、スケートボードの転倒で頭を強打したのがもとで、10歳か11歳で命を落とした少年の墓に連れていったら? そうしたらさすがに子どももこたえるのではないだろうか?
そのとおりだ。あなたの子どもはきっとヘルメットをかぶるようになる。のみならず、友人にヘルメットをかぶるよう進言さえするようになるかもしれない。2つの差は「なぜ」の説明の有無──それだけだ。なぜ、そうせよと言っているのか、なぜそれが重要なのかを説明するか、しないかだ。
「私がそう言うのだから」というのは、人に、こちらがさせたい何かをやらせるのに最善の方法ではない。それはまた、人を率いるのに最善の方法でもない。当然のことのように見えるかもしれない。
だが、「私がそう言ったのだから」は現実に、さまざまな形で用いられている。「これは私の命令だ」「これは私のプロジェクトだ」「私は君の上司だ」。これらはどれも、「私がそう言ったのだから」の変形にすぎない。
そしてこれらはみな、リーダーシップの効率性という観点からは同等だ。いいかえれば、どれも効率性は低いということだ。これらの言葉はどれも、あなたの部下が全力で任務の達成に向かうよう、背中を押しはしない。
彼らは命令には従うだろう。だが、本物の熱意や不屈の精神をもって取り組みはしない。なぜなら彼らは、なぜ自分がそれを「やらされている」かを理解していないからだ。
そういうふうになるのは失敗だ。部下には、なぜそれをするのかをきちんと説明することだ。なぜそれを、ある方法で行わなければならないかを説明しよう。何かのタスクや作戦や手順がなぜ重要なのか、それがチームや会社や任務にどう影響するかだけでなく、彼ら自身にいかに影響するかも、きちんと理由をつけて説明することだ。
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