「教師が教える」から子供が学ぶへ転換が必要な訳 未来の世代が幸福に生きる為の教育に必要なこと
そして、いまに比べれば時代の変化もゆっくりでした。変化が遅い時代には、経験が豊富で知恵を持っている年長者が尊敬されます。時代の変化が速くなればなるほど、世代による感覚のズレが大きくなり、年長者の経験は古く役に立たないものになっていきます。
このように、知のツールが学校にしかなかったこと、学校が社会の理想を実現していく学びの場となっていたこと、そして時代の変化が遅いという3つの条件が重なって、教師は尊敬され、学校も大事な場所になっていたのです。
学校教育で教えることは子どもたちの知らないことばかりで、子どもたちは新しい知識に触れ、しかも社会の課題実現が語られる。誰しも「すごいなあ」「なるほど」と思ったものです。だからこそ、啓蒙的な教育が戦後のある時期までは十全に成り立っていましたし、教師たちがするべき工夫は「知識をなるべくわかりやすく教えること」でよかったのです。
ただ、その頃も、教科書の知識を一方的に教えるだけではない授業が実に豊かにされていました。
たとえば、地域の社会問題について取り組んだ有名な実践に、京都市立日彰小学校の「西陣織」(1953年)があります。(中西仁「永田時雄・『西陣織』再考」、2013年)
これは、なぜ西陣織が廃れてきたのかを1年かけて調べる授業でした。この小学校の校区では西陣織は生産していませんでしたが、呉服問屋が多く、子どもたちにとって着物はとても身近なものでした。小学校5年生の社会科の授業で西陣織の作り方を調べ、工場を見学し、職人や大学の先生にも話を聞きに行き、そしてこれからどうすればいいかをまとめて発表する。いまで言うところの調べ学習に、1年がかりで子どもたちが取り組んだものです。
また、「生活綴方」と呼ばれる実践で、子どもたちが日常生活をそのまま素直に文章で表現し、その表現を通して生活や生き方について考えるというものもありました。
これらは教えだけでなく子どもの学びに焦点を置いた教育で、1950年代はこうした教育の模索が各地で行われていました。
日本の教育が大きく変わり始めるきっかけは高度経済成長政策でした。農業中心の社会をやめ、工業を中心にする社会へ急速に転換していく政策です。庶民は「農業、漁業、林業などはもうダメだから、おまえは学校に行って大きな会社に入れ」と自分たちの子どもに要求し始めました。その結果、教育、学校はより偏差値の高い学校に入るための訓練の場になり、授業は上手に点数をとる練習の場となっていったのです。
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