その自由はサラリーマン彼氏の犠牲の上にあった
そんなHanakoカップルの描写だが、ここで目を引くのは、頻繁に描かれた、夕食の後片付けをするイチローさんの姿だ。ハナコさんが自由業ということもあるのだろう、料理もゴミ出しもハナコさんがしているし、現代的観点からはとても家事が平等に分担されているとはいえない。しかし、あるいは当時の会社員のモーレツぶりに配慮してのことだったのか、吉田のイチローさんへの視線は優しいのである。
80年代末から90年代初頭にかけてのHanako族の女性たちは、確かに自由を満喫しようとし、また実際したのだろう。だが、この描写からは、彼女たちはその自由が交際相手のサラリーマンの犠牲の上に成り立っていることを知っていたのではないか、と思わずにいられない。
そして同時に、その犠牲に基づく自由がいつまでも続くわけじゃないのを知っていたのではないか。ハナコさんが、結婚は「今さらしてもしなくても同じよ」と言うとき、それは事実婚なみの同棲が可能になった現実への賛歌であると共に、いずれ訪れる法律婚によってその自由が終わることへの暗示ではなかっただろうか。
最後に柴門の作品に戻ろう。実は、『あすなろ白書』以前に連載されていた『東京ラブストーリー』にも『Hanako』は登場している。ヒロインの赤名リカが病院で診察を待っている場面だ。このシーンにおけるリカは、付き合っている永尾完治に「つきあいきれないよ」とつぶやかれるほど自由奔放でありながら、以前の不倫相手の家族を思いやりもする女性として描かれている。
リカのような自由な女でさえも結婚という制度の前では自由でありえない。ここには、バブル期未婚女性の自由の短命が予言されていたのではないだろうか。今、ぼくにはそう思える。
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