日本の近代化を牽引した「有楽町」と駅の存在感 帝国ホテルに帝劇、「最新式電車」が乗り入れ
当時の日本は江戸時代に締結した不平等条約が重荷になり、条約改正が急務になっていた。西洋諸国に条約改正を迫るには、日本が文化的に進んだ国であることを示さなければならず、そのバロメーターは国家の人権意識と上流階級のふるまいの2つだった。井上は上流階級のふるまいを体得させる手段として、西洋の社交界では必須のたしなみになっていたダンスに着目。鹿鳴館では連日にわたってダンスパーティーを開催した。
井上の取り組んだ政策は欧化政策と呼ばれ、庶民からは欧米諸国の文化を妄信していると不評を買った。井上は条約改正に失敗して失脚するが、その思想は渋沢をはじめとする民間の実業家たちに受け継がれていく。その象徴とも言えるのが、1890年に鹿鳴館の隣地に開業した帝国ホテルだ。
さらに、「喜賓会」が1893年に事務局を置く。その主たる業務は訪日外国人観光客の誘致や宿泊・交通の手配のほか、本来なら外務省や宮内省(現・宮内庁)が担う国際親善という側面も併せ持っていた。
そして、1911年には帝国劇場が開場。帝国ホテルと帝国劇場は、華奢という批判から潰えた鹿鳴館に代わる国賓をもてなす場として期待された。その至近につくられた有楽町駅は、文明開化の大役を託された地の最寄り駅といえる。
駅の開業自体は遅かった
しかし、有楽町駅の開業は1910年だ。日本初の鉄道として開業した新橋駅―横浜(現・桜木町)駅は、開業を急ぐあまり用地買収の手間を省くことを優先し、線路は海沿いに建設された。このため旧・新橋駅は市街地から離れた場所に開業し、使い勝手がいいとは言えなかった。もちろん有楽町駅も存在しなかった。
交通の便を改善するべく、品川駅から線路を分岐させて上野駅へと結ぶ鉄道構想が浮上する。同計画を立案したのは、ドイツから来日したお雇い外国人のヘルマン・ルムシュッテルだった。
1887年に来日したルムシュッテルは、九州鉄道(現・JR九州)で技術指導に携わり、その後に東京市区改正にも深く関与する。東京市区改正とは、江戸時代から残っている古い街並みを改造する政策で、現代風に言い換えれば大規模再開発計画ということになる。この頃、帝都にふさわしい都市を築くための議論が盛んになっており、東京市区改正の議論をリードしたのは内務省だった。
内務省は地方行政をはじめ警察・土木・衛生・勧業・国家神道という幅広い分野を所管する巨大官庁。ゆえに、東京の都市改造でもある市区改正を議論することは理解できる。他方、外務省も東京のまちづくり計画を進めていた。
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