日本の近代化を牽引した「有楽町」と駅の存在感 帝国ホテルに帝劇、「最新式電車」が乗り入れ
諸外国との交渉を受け持つ官庁である外務省が、東京のまちづくりに口を出そうとしていたのはなぜなのか。
初代総理大臣の伊藤博文は井上馨を外務大臣に起用したが、内閣直属の臨時建築局という特命部署を立ち上げて井上を総裁に任じた。井上は鹿鳴館外交や汚職事件もたびたび取り沙汰され、一般的な評判は悪い。
しかし、銀座煉瓦街を見事に成功させた実績からもわかるように、明治新政府内では都市計画の第一人者でもあった。それだけに東京のまちづくりを内務省に任せておけないという自負があったのかもしれない。いわば、井上はダーティーヒーローともいえる存在だった。
井上は、それまで各地に散らばっていた省庁の庁舎を日比谷周辺へ集めることを企図した。官庁があちこちに点在していると連絡や調整で支障をきたすが、集中して立地していれば事務や連絡はスムーズになる。強引ともいえる井上のまちづくり構想は、日比谷官庁集中計画と呼ばれた。
「日比谷集中計画」に有楽町駅はなかった
なぜ、井上は官庁を日比谷へ集中させようとしたのか、現在も確固たる理由はわかっていない。
それでも井上の描いた官庁計画の図面を眺めると、その思想の断片は読み取れる。大政奉還の翌年に発足した東京府は、元大和郡山藩柳沢家の上屋敷を府庁舎として使用していた。現住所なら千代田区内幸町一丁目2番地にあたる。つまり、日比谷だ。井上は東京府庁舎があり鹿鳴館をつくった地に、政府機関を集めようとしていたことになる。
東京府庁舎は1894年にのちの有楽町駅の北隣に移転。1997年に現在地の西新宿へと再移転するまで、都政の中心地は有楽町であり続けた。
井上は日比谷官庁集中計画でも、銀座煉瓦街と同じように庁舎をレンガ造にする青写真を描いた。残念ながら法務省以外は赤レンガ造の庁舎は実現していない。つまり、井上の官庁集中計画は未完に終わったということになる。
井上が建築物の配置や外観に大きなこだわりを持っていたことは間違いない。そして、日比谷官庁集中計画が描かれた計画図を仔細に眺めると、そのこだわりは道路や鉄道にまで及んでいることがわかる。現在とは微妙に位置が異なるものの、後の東京駅となる中央駅がきちんと描き込まれていた。
しかし、その計画図に有楽町駅は描かれていない。
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