江戸幕府の崩壊招いた「災害連鎖」対応に学ぶ教訓 現代にも通じる先人の危機管理体制の実態

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大名の国替や屋敷替には、莫大な費用を必要とした。

例えば、明和5年(1768)の尾張藩上屋敷の添地拝領の場合、4万9993坪の上屋敷地に加えて2万4742坪の添地が預けられたのであるが、幕府による発令から5カ月あまりを要し、これに伴い引っ越しを強いられた他藩には、幕府から銀500枚、幕臣70人には合計金105両と銀396枚が支払われ、尾張藩も相当の出費を強いられている。

御三家でしかも大名側からの願い出という特殊なケースではあるが、代替措置として中屋敷や下屋敷を返上している。収公と下賜という原則が貫かれなければ、藩と幕府による領知権(土地を領有して支配する権利)の共有体制は成り立たなくなってしまう。したがって、その裏づけは最終的に幕府の盤石な財政にあった。屋敷替一つをとっても、幕府からの莫大な下賜金を必要としていたのである。

幕府の財政基盤をむしばんでいった災害連鎖

ところが、天明年間以降の災害による広域に及ぶ復旧・復興事業の断続的な継続が、関係諸藩はもとより、幕府の財政基盤をむしばんでいった。

例えば、浅間山の大噴火は広域かつ長期の復旧事業を必要とした。加えて、岩木山・浅間山と続く大噴火が冷害をもたらし、関東から東北地域を中心とする江戸時代最悪の天明の大飢饉を発生させることになった。

想像を絶する長期的な大災害に、幕府が十分な財政支援をおこなえなくなると、各藩は自立をめざさねばならない。これが、幕府の威信の低下につながったのである。幕府と藩、とりわけ大藩との関係は、徐々に変質していった。大藩においては、藩領や拝領屋敷を藩の財産のように意識し始める。これが、「大政委任論」とリンクすることで幕末の情勢へと政治が動くことになった。

予期せぬ災害の連鎖のもと、領民を守らねば藩が崩壊する、という厳しい現実のなかで歴史が紡がれた。ところが、地域社会においては高利貸活動に伴う地主制が浸透し、事実上の土地私有制が広く深く浸透していた。領知権の共有体制は、諸藩において崩壊しつつあったのであり、農村においては田畑が物件化したため「公田」とする意識は後退し、地方城下町においても町人地の家屋の物件化が浸透していった。

震災や疫病といった災害が頻発した幕末期、雄藩は生き延びるために藩国益論にもとづく領知権の私有化に舵(かじ)を切り、将軍から天皇へと主君を替えようとした。大政委任論の台頭は、天皇を頂点とする新国家の正統性を保障することになった。これらの結果として、幕末には国替がおこなわれなくなり、参勤交代すら形骸化していった。

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