江戸幕府の崩壊招いた「災害連鎖」対応に学ぶ教訓 現代にも通じる先人の危機管理体制の実態
ここでふれておきたいのが、「安心の回路(非常時における治者と民衆との間の情緒的な結びつき)」の行方である。廃藩置県を受けて旧藩主は東京に集められることになった。これに対し、西日本を中心に藩士ではなく領民たちが「旧藩主引き留め一揆」をおこしたのである。
政府はこれを「違勅(いちょく)」と決めつけて、天皇蔑視の大罪として府県の権限で処断するとともに、鎮台(軍隊)の出兵まで認めた。広島・松山・高松・姫路・生野・清末(きよすえ)・高知など中国・四国の各県で発生した一揆については、首謀者を死刑に処すなど、藩の解体に神経を使っていた政府は、厳しく弾圧したのである。
それに代わってアピールしたのが、天皇権威と「仁恵」あふれる新政府像であった。民衆に対して、天皇は数千年の太古からの「大君」であって、世界にはない「現人神(あらひとがみ)」であることを、天皇の巡幸を盛んにおこなうことによって浸透させようとした。
積極的に救護活動を行った皇室
災害に関しては、明治天皇の最初の巡行の際、明治5年2月の浜田地震(マグニチュード7)の見舞いに下関に立ち寄り、「救恤(きゅうじゅつ)のため御手許金3000円」を下賜している。
これは、「旧藩主引き留め一揆」を意識して「王化」のための試みでもあった。
関東大震災では、大正天皇に代わって摂政にあった裕仁(ひろひと)親王(後の昭和天皇)が、東京市・横浜市・横須賀市で被害状況を視察し、被災地のために1000円を首相に下賜したのをはじめとして、賑恤のために活発に指示した。また、貞明(ていめい)皇后(大正天皇の皇后)も、積極的に救護活動をおこない、広く国民に皇室の役割を示したとされる。
かつての「国民(藩領民)」は、さまざまな機会を通じて近代的な「国民(臣民)」としての教育・教化を受け、藩主に代わる存在として天皇を頂点とする皇室を意識するようになってゆく。
このように、権力と民衆の間に形成された「安心の回路」は、時代とともに変質したのであり、決して太古から一貫していたわけでも、自然に形成されたものでもなかった。
■参考文献
藤本仁文『将軍権力と近世国家』(塙書房、2018年)
白川部達夫『近世質地請戻し慣行の研究』(塙書房、2012年)
深谷克己『東アジア法文明圏の中の日本史』(岩波書店、2012年)
勝田政治『廃藩置県─「明治国家」が生まれた日─』(講談社選書メチエ、2000年)
谷山正道「廃藩置県と民衆─西日本における旧藩主引留め『一揆』をめぐって─」(『人文学報』71、1992年)
成田龍一『「故郷」という物語』(吉川弘文館、1998年)
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