江戸幕府の崩壊招いた「災害連鎖」対応に学ぶ教訓 現代にも通じる先人の危機管理体制の実態
幕府と藩による領知権の共有体制は、版籍奉還・廃藩置県そして最終的に明治6年(1873)の地租改正によって否定された。ここで近代的な土地私有制度が導入されたのである。また、ここに預治思想は消滅し、天皇を中心とする近代官僚制が開始される。
行政の主体は新政府に移行し、地方行政の実務は府県以下が担当することになった。日本における資本主義化は官営工場の導入と財閥の育成、近代政治は帝国憲法の制定と帝国議会の設置によってというように、ヨーロッパの制度を権力的に導入したものだった。
日本とヨーロッパのそもそもの違い
所有のありかたからみると、少なくとも日本近世をヨーロッパ由来の封建制概念でとらえるのは正確ではない。そもそもヨーロッパと日本では、前近代国家の土台となる農業基盤が根本的に違っていた。集約的な労働力編成を必要とする稲作に頼る日本の農村社会には、元来、強固な共同体の存在が不可欠だったから、私有という観念は比較的希薄だった。
藩から種籾の支給を受け、代掻き・田植えに始まり稲刈・収納に至るまで、村人総出が当たり前だった。肥料や飼料の供給のためには、里山・草原など入会地(いりあいち)の存在が前提となっていた。
多くの藩では平等原則を旨とする割地制度(土地を割り当て、一定期間経ったら割当直す制度)も採用されていた。それに加えて、質地請戻し慣行と言って、質流れになった田畑を元金さえ払えば取り返すことが、広く認められていた。しかも、地震や火災などの災害に際しては、藩からのさまざまな援助が前提だった。災害などで百姓たちがただちに没落しないセーフティネットが、制度として藩や村方で認められ守られていたのだ。
戦国大名による国郡境目相論によって私的領有制度の限界に直面した中世国家を、預治思想にもとづく公共観念と行政機能の浸透で克服したのが近世国家だった。このような観点からも、そろそろ東アジアのなかの日本を意識した、自前の歴史像を提示する時期が到来しているのではないか。そう考えるのは、決して筆者だけではあるまい。
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