「プロデューサー兼演出家」が40年続けた文化事業 「希望を捨てない悲観論者」の目配りと感覚
そう考えてみれば本書そのものについても、劇作家にして演出家である山崎のプランと、著者の構想が重なったものと読むことができる。片山もまた、「山崎は、文化財団という戯曲の作者であると同時に、プロデューサー兼演出家であった」と指摘している。シンポジウムの運営や雑誌の編集、地方の文化活動への目配りなど、山崎の実践活動の随所に、そうしたプロデューサー兼演出家としての感覚が生きていた。私的な記憶では、オーラルヒストリーの本に「舞台をまわす」という題名をつけようという提案に、山崎本人ははじめ否定的だったと聞く。さまざまな場面で機転を働かせ、演出をめぐらしてきた経験は、ひとことの簡単な言葉で言い切れるものではない。そういう気持ちが働いていたのかもしれない。
山崎その人の思想と生涯に関しても、本書が教えてくれることは多い。親しく交流し、サントリー文化財団にも深く関わったアメリカの社会学者、ダニエル・ベルのことを「希望を捨てない悲観論者」と山崎は命名しているが、その特徴づけは当人にもあてはまるだろう。最晩年は新型コロナウイルス感染症の流行と重なったが、そのもとで山崎は『中央公論』の特集に寄稿した文章で、東日本大震災などにさいして見られた日本人の「新しい公徳心の目覚め」に言及し、緊急事態宣言のもとでの「自制心」の成長ぶりに目を向けるよう、読者を促している。将来をめぐる不安をごまかさず、状況をリアルに見つめながら、必ず希望のきっかけを現実のなかから見いだす。それが政治と社会に関する山崎の評論のスタイルだった。
深い陰翳を潜ませた闊達な人格の全体像
しかし、単なる楽観論者だったわけではない。片山の筆は、山崎の言葉の奥にかいま見える、いわば陰の側面にも説き及んでいる。旧制の中学生だった終戦直後の時代に、満洲でソ連軍・中国軍による苛酷な占領統治を経験したことについては、『舞台をまわす、舞台がまわる』で山崎が詳しく語ったところであった。片山もこの回想に注目し、日本に引き揚げたのち、アメリカ軍による占領を経験したことも含めて、「二重の国家喪失者」、そして「政治の底知れぬ闇の体験者」と呼んでいる。
山崎にとっての「政治の底知れぬ闇」のうちには、高校・大学時代に加わっていた、武装闘争路線をとる当時の日本共産党の活動も含めることができるだろう。実はオーラルヒストリーのためのインタビューの場面では、このころに関する回想は、細部の記憶が詳しいにもかかわらず、それぞれの事件がどの年にあったのかについて、語りがきわめて混乱していた。それはこの政治経験で味わった傷の深さと、内面での激しい葛藤をへてそれを克服したことに根ざす、記憶の混濁だったのではないか。
山崎が、さまざまな立場の人々との「社交」を愉しみ、誰にも対等に親しく接していたことは、多くの人が回想することである。片山の筆致もその温顔を生き生きと伝えている。だが同時に、親友であった高坂正堯とのあいだにも感情の対立があった側面や、粕谷一希との関係が最後には疎遠になったことにも、言及を忘れていない。そうした深い陰翳を潜ませた闊達な人格の全体像が、本書にはみごとに活写されている。
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