「プロデューサー兼演出家」が40年続けた文化事業 「希望を捨てない悲観論者」の目配りと感覚

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サントリー文化財団については、まだしゃべっていないことがあるから、それを書いてほしい。本書の「はじめに」によれば、山崎が晩年に片山に対してそう依頼したのが、刊行準備のはじまりだった。数度にわたる当人へのインタビューの記録も本書に収録されているが、さらにサントリー文化財団との関わりだけにとどまらず、山崎の生涯について資料を集め、関係者への聞き取りを進めたうえでまとめた一冊である。本書で初めて明らかになった事実も少なくない。

プロデューサー兼演出家として

サントリー文化財団は1979年、当時のサントリーの社長、佐治敬三と山崎との協力のもとに発足した。学術研究や文化・芸術の活動に助成を与える財団を企業が設立する例は、それまでの日本にもあったし、サントリー(寿屋)も特定の分野に関して行ってきた。

しかし、特に「文化」財団と名づけたことに意味があったという。当時は、戦後の急速な経済成長が一段落した時期である。物の豊かさから「文化」の質の向上へと、社会の目標を転換すること。その重要性を知識人として論じていたのが山崎であり、佐治ももともと、絵画、俳句、書、能など多彩な芸術をみずから実践する人であった。時代の潮目と二人の個性とが響きあって実現した、大企業の文化事業なのである。

しかも財団の運営方針を定めるにあたり、普通の学術助成の審査団体にしなかったところに、山崎の創意がある。財団の規模は巨大なものをめざさない代わりに、事務局は少数の優秀な人材を集め、個人がそれぞれ大きな機能を担うチームとすること。研究プロジェクトやシンポジウムの運営にあたっては、資金と場を提供するだけですませるのではなく、さまざまな分野の研究者たちの交流が楽しいものになるよう、こまやかな配慮をめぐらせること。文化財団そのものがそうした「社交」の空間となることが、見えないところで知的活動と財団そのものの継続を支える。発足にあたって山崎がこうした方針を定め、佐治もまた深く共感したことが、財団の歴史の出発点だった。

やはり文化財団の主要事業であるサントリー学芸賞も、若手の知識人を育て、専門分野をこえて交流してもらうことをねらって始めたものであった。その受賞者の数が長い期間にわたって積みあがった結果として、「2000年代の日本の言論界を展望して、その半ば以上をサントリー学芸賞の受賞者が支えているといっても、傲慢のそしりを免れるはずである」。そういう山崎の言葉を、本書は引いている。活字メディアで活躍する論者に限ったとしても、「その半ば以上」が受賞者だと見積もるのは過大評価であろう。しかしこれは、文化財団の事業を立派になしおえたことに関する、山崎の達成感の表れと読むのがふさわしい。

本の形で記録を残して、このユニークな文化事業の意味と重要性を、世に広く長く知ってもらうこと。経済成長が停滞するいまの状況では、同じような「文化財団」がたくさん生まれるとは期待できないが、少なくとも関連する官庁や本社が、今後も理解し支えてくれるようにすること。余生が長くないと知った山崎が本書を企画し、片山にその執筆を託した背景には、そんな目的があったのではないだろうか。

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