人間の「皮膚」に隠れた壮大すぎる生存戦略の要諦 皮膚研究の第一人者が語る皮膚と意識の密な関係
さて、ではその意識はどのようにしてできたか。
椅子に座っていることは、自分がどういう姿勢になっているか、という注意、意識の対象への集中から知らされる。これを体性感覚という。おしりが何かの上に乗っているという皮膚感覚も、それを支持している。時間やパソコンやキーボードは眼で見て、判断している。ただ、それはこれまでにぼくがパソコンで文章を書いた経験があるから、それがわかるので、パソコンもワープロも、電卓さえなかった小学生のぼくが、今、ここにいたら、自分の目の前にあるものが何であるのか、わからない、つまり過去の経験も意識に必要だ。
意識しようとしたとき、視覚、体性感覚、触覚、場合によっては聴覚、嗅覚、味覚という感覚と、脳の中の記憶とが統合されて「今のぼく」という意識が立ち現れる。脳がそれらの情報と記憶を瞬時に編集して創作する。意識はフィクションなのだ。
変化し続ける意識
意識はフィクションだと言うと、そんなことはあるまい、という、ぼくに言わせれば感情的な反論がある。では意識は常に現実だろうか。
ごく一般的になったヴァーチャルリアリティを思い出せばいい。ちょっとした仕掛けで現実ではない意識は易々と作られる。
では、意識はなぜあるのか。これもぼく個人について考えてみる。他人や、あるいは犬や猫、山椒の木やゾウリムシにも意識はあるかもしれないが、その詳細については想像するだけで、少なくとも現代科学では知りようがない。
ぼくの意識が、ある瞬間、現れるということは、ぼく、という個人の自己が現れることでもある。ぼくという1人の人間がいる。過去の記憶がある。その中のぼくは、やはりぼくだ。今のぼくの状態がある。そして明日の、来年のぼくも(多分)いる。過去から未来への時間の中に同じぼくがいる。しかし、それはフィクションだ。経験によって、ぼくは変わる。昨日のぼく、去年のぼく、40年前のぼくは同じではない。すきなもの、きらいなもの、すべてが変わっている。
しかし、敢えて変わってきて、これからも変わるぼくを同じ人間と設定することで、過去の経験を未来に役立てることができる。進化心理学者のニコラス・ハンフリー博士は、それが人間の意識がうまれた理由だという。そのために学び予測し生存する力を持ったという(『喪失と獲得:進化心理学から見た心と体』垂水雄二訳、紀伊國屋書店)。
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