フィフィさんのお母さんは、日本で『国際政治』の博士号を取得した。
日本は景気のいい時代だったので、講演会やイベントの仕事も多かった。暮らし向きはよくなり、家も購入し、家族で引っ越した。
「両親はずいぶん頑張ったと思います。
母は湾岸戦争が起こった頃、評論家としてテレビにも出演していました。
母は日本語がおぼつかなくて討論についていけていませんでした。番組を見ながら、もどかしさを感じたのを覚えています」
当時のテレビ番組は今よりも、
『アメリカが正しい』
『イラクやアラブ人が悪い』
という結論になりがちだった。
「当時はインターネットもありませんから、テレビで流れる情報が絶対的でした。アラブ人の立ち場で番組を見ているとフラストレーションがすごかったです。『テレビが流すものがすべて正義』というのもすごく不満でした。このときのわだかまりが、今の活動にもつながってると思います。今思えば小さい頃から『文章で表現する仕事』『ジャーナリスト』にあこがれていたと思います」
大学進学後、共産主義にあこがれ中国を何度も旅行
フィフィさんは中京大学に進学した。
大学時代は、共産主義に強い憧れを持った。中国に何度もバックパッカーで旅行した。
「いろいろな地域を旅しようと思っていたのですが上海が好きになっちゃって、ほとんど上海にいました。その頃の上海は好景気で、毎月新しいビルが建つような状況でした。私は日本ではバブルを経験したことがない世代なので、日本も当時はこんな雰囲気だったのかな? とワクワクしました。古いものと新しいものが入り交じりながら経済成長していく上海はすごくかっこよく感じ、憧れました」
フィフィさんは当時、鄧小平が好きだったという。たまたまだが鄧小平が亡くなったときにもフィフィさんは中国にいた。
「香港に行こうと思っていたタイミングだったんですが、鄧小平が亡くなって警戒が厳しくなりました。私も40分ですが、警察に拘束されました。逆らうと丸裸にされると聞いていたので、おとなしくしていました。私はアラブ人だし、しょっちゅう中国に来ているし、スパイだと思われたんでしょうね(笑)。
ただ共産主義に対する憧れは、大人になるとともに消えていきました」
そしてリクルートスーツを着込み、就職活動をはじめた。ただでさえ就職難の時代だったが、それとは関係のない大きな壁にぶつかった。
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