その後はブログの反響もあって、以前よりも情報番組に呼ばれる機会が増えた。
ただ、そのような番組では、おじさんのジャーナリストの出演者が多い。
「『なんなの? どんな立ち場でしゃべってるの? ただの外国人でしょ? タレントでしょ?』ってとにかく手荒い洗礼を受けました。ただそうやって言われても仕方ないな、それでも続けよう、って思いました。
コメンテーターをずっと続けてきて、おじさんたちと顔なじみになり、最近では『フィフィちゃん』って言われるようになりました。ここまで来るのに、ずいぶん時間がかかりましたね」
フィフィさんは、2013年に『おかしいことを「おかしい」と言えない日本という社会へ』を上梓した。
「『言いたいことを、そのまま書かないですか?』という依頼でした。小さな頃から本を出したいという気持ちがあったのでうれしかったです」
フィフィさんは名古屋で就職していたとき、出張のたびに会社には内緒で出版社に原稿を持ち込みに行っていたという。
「出版社からは『名古屋弁をしゃべるエジプト人』という部分だけを注目されました。私が書きたいものを書かせてもらえるわけじゃないんだな、と落胆しました。
だから書籍で、自分の書きたいことを書けるというのは素直にうれしかったです。ゴーストライターをつけずに、全部自分で書きました。やっぱり自分の言葉で伝えたかったので」
芸能の仕事は忙しく、またお子さんも小さく手間もかかった。執筆ができるのはほぼ夜中だけだった。夢中で書いて、気づいたら朝になっていることもあった。
「日本の方々にメッセージを伝えたい、恩返しをしたい、という気持ちを集約しました。子供を産むくらいの気持ちで作りました。その気持ちは伝わったみたいで、読者の方が『ここで泣けたんだよ』っていうページは、実際に私が泣きながら書いているページでした。評判がよかったのもうれしいですし、本を出したことで両親を安心させられたというのもうれしかったです」
「自分は何者なんだ」をつねに考えてきたからこそ
フィフィさんのSNSや書籍を読むと、日本人以上に日本のことを考えていること、そして愛していることが伝わってくる。
それは、なぜだろうか?
「日本に生まれた日本人にとって、自分が日本人であるのは当たり前のことだと思うんです。特別に考えるチャンスはあまりありません。でも私の場合は、つねに『自分は何者なんだ?』ということを考えなければいけない環境にありました。小さい頃から、日本で育ちながらも、どこかでエジプト人としてのアイデンティティーを保たなければなりませんでした。
日本のことも、エジプトのことも、普通の人よりずっと長く深く考えているから、愛おしく感じるようになったんだと思います」
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