船橋:本来有事とは、平時からモード転換された世界で、論理も倫理も平時のそれとは違う世界だと思います。しかし、今、現在進行形で起こっているコロナ危機への対応がまさにそうですが、日本の場合は平時と有事の境界がなんとなく曖昧で、しかも、結果としてそうなっているのではなく、意図的に曖昧にしようとしているのではないかということさえ感じます。
今年の通常国会で可決された特措法改正の付帯決議を読むと、「まん延防止等重点措置」などを導入して有事に備えようというのにその備えを迅速かつ断固として実施させるのを牽制する条項ばかり並んでいます。付帯決議は法律そのものではありませんので、留意事項程度なのですが、平時から有事への切り替えへを忌避する力が強くて、どこまで行っても有事なのに有事になり切れない「あいまいな日本」なんですね。
そこで、伺いたいのは、近衛文麿におけるリーダーシップの失敗です。2014年に刊行された『近代日本のリーダーシップ』(戸部良一編著、千倉書房)を拝読し、最も印象深かったのが、近衛について書かれていた第9章でした。
近衛は日中戦争勃発時の首相ですが、結局、盧溝橋事件後、「不拡大方針」を掲げながら、北支から中支へと戦線を拡大させ、その過程で南京虐殺が発生し、結局、ずるずると敗戦の1945年まで、満州事変から数えると15年間、日本の軍隊は中国大陸に釘付けになりました。しかも、第二次近衛内閣の時には日独伊三国同盟に調印し、アメリカとのその後の決定的衝突へと転げ落ちていく転機となってしまう。
日中戦争勃発当時、近衛内閣はこれを「戦争」と認めず、「事変」と規定しました。国際法による戦争となるとそこへの軍需物資の輸出を禁止するアメリカの中立法に抵触するため、軍需物資の輸入を止められないように「戦争」の言葉を使わないという計算でした。
「事変」の表現は印象操作ではなかったか
そういう戦略外交的な考慮とともに、「事変」という表現は、もはや戦時であるのに、いかにも平時の延長であるかのような印象操作でもあったのではないでしょうか。現実には中国大陸では戦争が続いているにもかかわらず、日本国内では翌1938年に渡辺はま子の「支那の夜」が大ヒットしました。
このあたりの日本人の心情は、筒井清忠さんが『西条八十』で印象的に記していますが、これは「元来中国と戦争はしたくないのだが、誤ったリーダーに煽動されて日本に敵対するのでやむをえず戦うことになってしまった。しかし、中国の民衆とは決して仲違いしたくない」という心情であり、そこが日中戦争の奇妙なところだ、と言っています。
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