ただ、官僚制の弊害は、日本だけではなくどの国の官僚制にも付きまとう問題で、いわば官僚制の逆機能として発現するものだと思います。それが日本の場合、危機が最高潮に達している最も大切な場面で出てしまうという特徴があり、その原因を考えることが課題だろうと思います。
リーダーシップ論については、『フクシマ戦記』で当時の民主党政権の菅直人首相を厳しく批判しながらも、「彼がいたから持った」と指摘されているところが意外で、ちょっと菅さんを見直したというところがありました。
もう1つ、余計なことかもしれませんが、日本の問題を考える際、文化論に落とし込むことの危険性を指摘しておきたいと思います。私は防衛大学校の国際関係学科で教鞭をとっていましたが、それは当時から学生に口を酸っぱくして指導していたことです。さまざまなケースを分析した後に、その原因を日本的な文化やその欠陥に求めたのでは、実は何も言っていないことと同じで、その結論は逃げでしかありません。
ところが、その後に国際日本文化研究センターに身を移しましたが、そこには、多くの研究者が「日本独特なもの」と口を揃える“文化”がありまして、大変なところに来てしまったと思いましたが、やはり、「日本的」「日本の文化」というところに逃げずに、問題の本質を突き詰めることが必要だと思います。
船橋さんも、『原発敗戦』(文春新書)で、文化決定論は無責任と敗北主義をもたらすだけだと警鐘を鳴らされていたと記憶しています。
文化に流し込むと教訓を得るのが難しい
船橋:以前に、昭和史家の半藤利一さんと『原発敗戦』について対談したことがあるんですが、私が失敗の本質は文化ではないと主張したのに対して、半藤さんは「いや、それでも日本の問題は、最後は文化だ」だとおっしゃっていましたね。私は、危機に当たってのガバナンスは、当事者と担当者の個々人の判断、役割、責任が重要で、それを文化のせいとするのは個人の役割や責任をあいまいにする危険があると思います。
どこの、どいつが、どうしたことが問題だった、ということを突き止めることが重要だと思います。文化に流しこむと、教訓を得るのが難しい。学習の芽を摘んでしまう危険がある。もちろん、組織としての対応の可否を問うときに組織文化の問題はあると思います。ただ、その場合も、人事制度、昇進制度、報奨制度、コンプライアンス制度、法制度、判例、メディアの取り上げ方などの組織文化を成り立たせる構造と状況があります。むしろ、そちらを分析することが重要だと思っています。
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