10年後でも「違和感のない知見」に必要な視点 「今」を正確に捉えるために必要な「長い時間軸」
それでは「今」とはいつなのだろうか? これもちょっと考えるほど簡単ではない。論者によって、また専門分野によって捉え方はさまざまだ。
実は2011年に旧編集委員会が発足したときにも同じ企画をして、翌年発行した『アステイオン76号』に旧編集委員全員の論考が掲載されている。
2011年といえば東日本大震災の年で、夏の電力不足が毎日のニュースになっていたし、各地の放射線レベルが毎日新聞紙上に掲載されていた。国際的にはこの年は「アラブの春」の年だが、アメリカ社会の分断やイギリスにおける欧州会議論についてはつとに専門家たちの指摘するところだったにせよ、トランプ大統領もイギリスのEU離脱もまだ姿を現していない。
その76号で、震災後に一部で語られた天譴論に触れつつ禁欲主義と快楽主義を超える魂の幸福を論じた張競や、関東大震災時の清水幾太郎の体験を引照しながら恐怖との付き合い方を論じた苅部直の論文は、ともに震災を意識しつつも人間の不安や恐怖を取り上げたもので、10年後に読んでもまったく違和感のない、長い時間軸で問題を捉えようとしている。
また、76号でアラブの春について包括的な分析をした池内恵にとっては、最新号の論文では、「今」は単にアラブの春からの10年後であるだけではなく、911テロから20年でもあり、第一次湾岸戦争から30年でもある。
そうした大きな歴史の位相で中東だけではなく世界の「今」を捉えなおそうとしている。他方76号で、当時のオバマ政権の下でも米中関係の悪化の兆しを適切に指摘しつつも、太平洋におけるリベラルな国際秩序の可能性について語った細谷雄一にとっては、当然10年後には異なった「今」が出現している。
ポストモダン的問題意識と揺らぎ
『アステイオン94号』では、技術文明に支えられた生活に潜む不安や恐怖を問題にするポストモダン的な問題意識がある一方で、そういったポストモダン的世界の前提となってきた、技術進歩、グローバル化、自由民主主義、市場経済といった条件が、地政学的脅威、ポピュリズム、パンデミックなどによって大いに揺らいでいることも感じられる。
安全でカネがあってそれでどうなのだというポストモダン的な問題意識とともに、平和や繁栄というモダンな価値が、再び多様な形で脅かされているという危機意識が相互に絡まりあって表出しているのが、冷戦後の時代が終わった「今」の問題状況なのではないだろうか。もちろんこういう私の読み方以外にもさまざまな読み方ができるだろう。だが、執筆陣の語る多様な問題と「今」には、必ずや読者の関心と共振し、問題意識を刺激するものがあるはずだ。
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