10年後でも「違和感のない知見」に必要な視点 「今」を正確に捉えるために必要な「長い時間軸」
ますます狭く深く研究することを求められている専門家と、専門的知見を踏まえて総合的判断を求められる市民をつなぐ、知的な公共空間が自由民主主義にとってますます求められている。こういった知的公共空間を提供する活動を知的ジャーナリズムと呼ぶのなら、『アステイオン』が目指しているのはまさにそうした領域であり、知的な関心のある非専門家に、落ち着いた議論に触れることのできるプラットフォームとなることだ。
知的ジャーナリズムの岐路
残念ながらこうした知的ジャーナリズムはネットの時代になって、厳しい試練に見舞われている。昔はよかったというつもりは毛頭ないが、かつては世論形成に絶大な影響力のあった新聞や論壇誌は軒並み部数を減らしている。私が教えている学生たちも、新聞を毎朝読むのはもう少数派だろう。
学術出版はもちろん、本は読まれなくなり街角の文化の担い手だった書店も数を減らしている。それに対してわれわれはネットに依存するようになり、その傾向はコロナ禍によっていっそう加速された。そのコロナの毎日の感染者数を知りたいのなら、テレビ局のアナウンサーにいちいち数字を読みあげてもらうよりも、ネットにアクセスしたほうが簡単に決まっている。新聞も本もあまり読まない今の学生のほうが、私の世代などよりよほどものを知っているのかもしれない。
いや知っているというよりも、スマホで「ググる」のである。もし知識や情報を効率的に習得することだけが大学の目的だとすると、オンライン授業とグーグルのほうが優れているのかもしれない。だとするとそのうち大学の教師も、ユーチューバーのようなものになるのだろうか。
ただしネット上にあるあふれんばかりの情報や議論の質は、信頼できるものからまったくインチキなものまでさまざまだ。かつては、そこは誰でもアクセスできる自由な空間なので、さまざまな人々が出会い対話をする機会が広がり、自由な公共空間が発展するという期待があった。
だが、中国やロシアなどの国家がこれを権力のために見事に活用する一方で、自由な国でもネットの世界の言論は、むしろ意見、趣味、利害、関心が同じ人々がそれぞれの徒党を組んで割拠するのを助長しているだけなのかもしれない。幻滅感とともに、言論のありように対する危惧も強まっている。それだけに、分野の専門家の問題意識を読んでみることは、内容への賛成反対を超えて、この号で中西寛が「品位のある社会」と呼んだものを構築するのに役立つはずだ。
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