ケインズ「一般理論」の「一般」に込められた真意 社会科学史上「最も影響力のある名著」の読み方

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それは目の前の大恐慌への処方箋でもあったが、また、経済学の「一般とは何か」の再考を強烈に迫るものだった。

ケインズの“一般理論“(general theory)という言葉に込められた真意(私の理論のほうが普遍的だ)は、とくに当時の古典派経済学の学者の価値観やプライドを逆撫でするに十分なものだった。その理論の完成度、そして大恐慌を目の前にしてのその示唆の魅力は、無視することが難しいものだった。

そして、戦争(第2次世界大戦)が始まり、終戦直後にケインズは戦争の経済的後始末に忙殺されつつこの世を去る。

その後にケインズの『一般理論』をもとに、ケインズ経済学の検証が行われ、ナチスが台頭した理由、戦争がもたらした有効需要、戦後のアメリカの好景気の要因といったことが詳らかにされていくと同時に、いまマクロ経済学として知られる経済理論が誕生することになる。

マクロ経済学が誕生したことで、経済学者は経済政策の立案が可能になった。人類は医学分野でワクチンを得てより健康的に豊かに過ごせるようになったが、経済分野ではマクロ経済学を手に入れたことで私たちはより経済的に不安の少ない豊かな生活を送れるようになった、といっても言い過ぎではないだろう。

私たちはいま、いわゆる“コロナショック“経済の中にいるが、ケインズがいなかったとしたらどうなっていただろうか。倒産は連鎖し、金利は凶暴となり、大恐慌のようにそれが10年も続く可能性もあるとすれば、1年足らずでのGDPの下げ止まりで済んでいる現状は、実際のところケインズからの贈り物なのかもしれない。

ただ、古典派経済学の重要性は、ケインズ経済学が生まれた後も健在だ。好況時にケインズ政策を続けすぎると、経済は好ましくないインフレに悩まされるようになってしまう。一時期のアメリカの悪性インフレから経済を救ったのは進化した古典派経済学だったということは付け加えておきたい。

古典派経済学とケインズ経済学は今でも論争を続けているが、両派が論争を繰り返すことによって、より経済学が強靭になり、私たちの役に立ち続けるに足る技量と多様性を獲得してきたとすれば、経済論争が続くこと自体はとても頼もしいことではないかと私は思う。

「不確実性」というキーワード

ケインズによって、私たちは経済の不確実性に対して強くなったと言えるかもしれない。

古典派の経済学はセイの法則を基礎に置いているため、根本的に不確実性に対して論理的に脆弱なところがあることは否めないが、ケインズが古典派を覆そうと発想した根底には、私たちの社会は「不確実性」から逃れられないという自覚が強烈にあったのではないか。

不確実性への見方は現代社会でも経済政策スタンスや意思決定を大きく分けるファクターであり、重要性を失っていないどころか、ますます大切になってきているようにも感じる。

不確実な現代社会にどう立ち向かっていくか。美しくも自律的な秩序による席巻か、手厚く滋養あふれる集中ケアか。あるいは両方か。

不確実性の時代と叫ばれ、さらに不確実性による災禍が現実となっている昨今、それを乗り越えていくための気合いと賢い行動のヒントを私たちが得るためにも、ケインズ『一般理論』の挑戦のインパクトを改めて考えてみることは、そのよい機会となるかもしれない。

佐々木 一寿 経済評論家、作家

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ささき かずとし / Kazutoshi Sasaki

横浜国立大学経済学部国際経済学科卒業、大手メディアグループの経済系・報道系記者・編集者、ビジネス・スクール研究員/出版局編集委員、民間企業研究所にて経済学、経営学、社会学、心理学、行動科学の研究に従事。著書に『経済学的にありえない。』(日本経済新聞出版社刊)などがある。

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