米国保守を代表する知識人「ハゾニー」は何者か 自由民主主義に代わる「保守民主主義」の提唱者
『ナショナリズムの美徳』を刊行したあと、ハゾニーはアメリカの宗教保守の雑誌である『ファースト・シングズ』誌の2019年1月号に「コンサーヴァティヴ・デモクラシー――リベラルな諸原理はわれわれを行き詰らせる」と題した寄稿をしている。
ハゾニーはこのなかで、これまでのリベラル・デモクラシー(自由民主主義)に替わるものとして、コンサーヴァティヴ・デモクラシー(保守民主主義)を提唱している。
ハゾニーによれば、実際はアングロ・アメリカの保守主義であるところの、このコンサーヴァティヴ・デモクラシーを構成する原理は、歴史的経験主義、ナショナリズム、(聖書的)宗教、制限された執行権(行政の権力は民衆の代表によって制限されなければならない)、そして個人の自由の5つである。
とくに最後の個人の自由について、ハゾニーは次のように述べている。
「諸個人の生命と財産の安全は、平和で繁栄した社会の基盤として神によって定められ、国家の恣意的な行為から保護されなければならない。真実を追求し、健全な政策を遂行できるネイションの能力は、言論と討論の自由にかかっている。これらおよびその他の基本的な権利および自由は法律によって保障され、正当な法の手続によらないかぎり侵害されない。」
民主主義は維持されなければならないが、リベラリズムは放棄されるべきである。なぜなら、リベラリズムに頼らずとも、アングロ・アメリカの保守の思想的源泉には、個人の自由の擁護が十分に含まれているというのが『ファースト・シングス』誌の寄稿でのハゾニーの主張である。
おそらくそこまではっきりとは語られていないかもしれないものの、『ナショナリズムの美徳』もまた、そのような前提のもとに書かれていると言ってよい。
もしそうだとすれば、仮に日本での読者であるわれわれがハゾニーの求めに応じてリベラリズムを放棄するとしたら、そのとき、個人の自由を保つものとして何が手元にあるだろうか。本書はハゾニーの意図とは別に、そうした問いをわれわれに浮かび上がらせてもいる。
一筋縄ではいかない本書のメッセージ
それを「帝国」と呼ぶかは別として、均質化を押しつけるグローバリゼーションの論理によって覆いつくされたかのような今日の世界にあって、対抗的な秩序としてあらためてナショナリズムに光を当てようとする本書のメッセージは明快で、それだけに刺激的である。
ただ、ハゾニーの主張の核心には、ヘブライの聖書的伝統と、そうした伝統の英米との共有の歴史があることもまた事実である。この伝統をネイションの単位で共有していないわれわれは、『ナショナリズムの美徳』の主張をまじめに受けとめようとすればするほど、もしかしたらハゾニーとアメリカの保守の友人たちの熱のこもった議論を離れたところから眺める立場にとどまらざるをえないことに、はたと気づくのかもしれない。
中東の歴史的地理的状況を背景に、あるいはアメリカ国内のユダヤ系コミュニティーとの太いパイプを通じて、イスラエルとアメリカの相互の知的交流は密接である。そうした文脈のもとで書かれた本書は、われわれにとって入り口のシンプルさとは裏腹に、一筋縄ではいかない距離の測りがたさを秘めてもいるのである。