米国保守を代表する知識人「ハゾニー」は何者か 自由民主主義に代わる「保守民主主義」の提唱者
そのハゾニーのネイションの定義には「共通の敵」という表現が登場する。彼がナショナリズムと対置させて批判する世界秩序のヴィジョンが「帝国」である。ハゾニーはこの「帝国」のなかに、古代のエジプトやバビロニアから、オーストリア=ハンガリー帝国を経由して、今日のEUまでを含めている。ハゾニーにとって、国民国家という枠組みを超えて、普遍的な秩序の名のもとに人々を支配しようとする「帝国」こそ、その野望を阻止するために立ち向かわなければならない最大の敵なのである。
自由民主主義から「保守民主主義」へ
ところで、EUに代表される今日の「帝国」の前提にあるものとしてハゾニーが名指しするのが、ジョン・ロックに思想的起源を見いだすことのできるリベラリズム(自由主義)である。
ここは『ナショナリズムの美徳』の解釈として分かれるところであるかもしれないものの、本書を通じてハゾニーは、リベラリズムを正統な政治原理から引き下ろすことを読者に呼びかけていると読むことができるし、そのように読む必要があるだろう。
ハゾニーは確信をもって、リベラリズムの終わりを望んでいるのである。つまり『ナショナリズムの美徳』は、パトリック・デニーンの『リベラリズムはなぜ失敗したのか』と同様に、リベラリズムの終焉を宣言するポスト・リベラリズムの書でもある。
注意してほしいのは、ハゾニーは『ナショナリズムの美徳』のなかで、自由について非常に頻繁に論じているということである。ネイションの自由、個人の自由、自由国家といった言葉でもって、である。ただしハゾニーにとって自由は、リベラリズムから完全に切り離して理解されるべきものなのである。
たとえばハゾニーは、奴隷が自由の身分を手に入れたとしても、もし自分の妻や子どもたちが奴隷のままであるとすれば、その者は自らが得た自由を本当のものとしては感じられないだろうと言う。
あるいは、祖国の専制を逃れて亡命した者が、異国の地で危害を加えられることなく自由を謳歌できたとしても、同胞がなお圧政に苦しんでいるとすれば、祖国の解放がなされたときにはじめて、その者の自由は本物になるだろうとハゾニーは言う。
ただ単に拘束されていないというだけの自由は空虚なものであり、自らが忠誠心によって固くつなぎとめられているネイションの集合的な自己決定に関われているときに、人は真に自由になる。
ハゾニーの主張は、消極的自由に対置される積極的自由として、政治思想の文脈ではとくに目新しいというわけではない。
そうではあるが、イギリスがEUから離脱し、ナショナリストであると公言する大統領がたとえ一期のみだったとはいえアメリカ合衆国に出現した現在、これらを好機としてとらえて自由の読み替えを英米の仲間たちと達成しようとするハゾニーの決意は固い。
そうしたなか、実のところハゾニーには、仮にリベラリズムを捨てても、社会は自由を失わないという自信がある。その自信の前提にあるのが、聖書、とくにヘブライ語聖書(旧約聖書)の伝統である。
あるいはまた、ジョン・フォーテスキューやジョン・セルデンといった、ジョン・ロックとは異なる、ヘブライ語聖書からインスピレーションを受けた(とハゾニーがみなす)イギリスの政治思想の系譜である。
こうした観点からハゾニーは、もちろんロックに依拠した部分を除いてであるが、アングロ・アメリカ(英米)のナショナリズムをほかのナショナリズムと比較して高く評価している。
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