日本の近現代史を正した「たった4票」の重み もし吉田茂、鳩山一郎、岸信介と続いていたら
湛山は、政治家になっても、その持論をいっさい曲げることはなかったそうです。
「第1次吉田内閣で大蔵大臣を務めていた湛山は、戦勝国というだけで、将校が住む家の電気代やガス代、ゴルフ代の支払いなどを日本にさせようとするGHQの要求を、断固拒否しただけでなく、占領政策そのものの歪みを堂々と指摘しました」
GHQの統治下におかれた日本で、そのGHQに立ち向かう人物がいたことに驚き、そんなことをして大丈夫なのだろうかという疑問もわいてきます。
「湛山という政治家を恐れたGHQは、本来なら追放基準に該当しない、いわれのない理由で、湛山を公職追放。湛山は数年間にわたって、政治活動はおろか、言論人としての活動もできない日々を送ることになったのです」
やっぱりだめか。でも、湛山は大蔵大臣なのだから、吉田首相は閣僚を守ろうとしなかったのでしょうか。
「吉田茂は首相として、石橋大臣の追放にきちんと対応せず、GHQの言いなりになった。その後、吉田とは対立関係が強まり、湛山は、生涯を通じて徹底した反吉田の姿勢を貫き、その怒りを内在化させて政治活動に結びつけました」
石橋首相の65日には大きな意味がある
湛山の強さは、正義と怒りが重要な要素だったのでしょう。さて、こんなに日本を想う政治家だった湛山が、なぜたった65日で内閣を解散してしまったのでしょうか。
理由は、「体調を崩した湛山が病院で精密検査をしてみると、2カ月間の静養加療要するという結果で、湛山にとって、2カ月の政治空白など到底考えられなかった」のだそうです。これはなんとも残念な幕引き。正直、もっと粘ってほしかった。
ただ、これまで私が抱いてきた政治家のイメージは「お金」でした。お金に絡んだ不祥事が発覚して失脚する政治家を何人も目にしてきたことでそんなイメージができあがっていましたが、湛山は別。こんなに潔い政治家を見た記憶がありません。
そして、保阪氏は、湛山政権の65日の意味を話します。たった65日に意味があるのかと思っていましたが、この話がとってもよかった。
「たとえ65日の内閣だったとしても、石橋内閣が誕生した意味は、とても大きい。湛山は、自民党の総裁を決める決戦選挙で、岸信介にわずか7票で勝利しました。たった7票差です。もし、この7人のうち、4人が岸の名前を書いていたとすれば、戦後の日本は、戦前の日本の中枢にいた人物が、首相を引き継ぐことになったわけです」
本当だ。戦前、吉田茂は外交官、鳩山一郎は国会議員、岸信介は東條英機内閣の商工大臣です。もし、石橋湛山が間に挟まれなかったら、戦前の軍事路線の中枢にいた人物の総理大臣が続くことになります。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら