人が「名門大学への入学」に執着する本当の理由 不正入試スキャンダルが示す能力主義の問題

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さらに、授業料がある。十分な予算を持ち、学生の支払い能力に関係なく入学を認めることのできる一握りの大学を除いて、学資援助の必要がない志願者は、貧しいライバルとくらべて入学できる可能性が高い。

これでは、アイビーリーグ(ハーバード大学をはじめとするアメリカの名門私立大学8校の総称)の学生の3分の2あまりが、所得規模で上位20%の家庭の出身なのも当然だ。

プリンストン大学とイェール大学では、国全体の上位1%出身の学生のほうが、下位60%出身の学生よりも多い。入学機会をめぐるこうした驚くべき不平等の原因は、1つにはレガシーアドミッション(卒業生の子供の優先入学)や寄付者への感謝(裏口からの入学)などにあるが、裕福な家庭出身の子供が正門から入るのを後押ししてくれる有利な立場にもあるのだ。

「能力主義」の問題点

批判者は、こうした不平等は、高等教育がその主張するところとは違って「能力主義(メリトクラシー)」ではない証拠だと指摘する。この観点からすると、大学入試スキャンダルは、より広範に蔓延する不公正の行き過ぎた例だと言える。こうした不公正のせいで、高等教育は自ら公言する能力主義の原則に従うことができないのだ。

意見の不一致があるとはいえ、不正入試スキャンダルを標準的な入試慣行からのショッキングな逸脱と見なす人びとも、大学入試にすでに蔓延している風潮の極端な例と見なす人びとも、同じ前提を共有している。つまり、学生は自分でコントロールできない要因ではなく、自分自身の力量や才能に基づいて入学すべきだということだ。言い換えれば、大学への入学は能力に基づいて認められるべきだという点に異論はないのだ。

彼らはまた、少なくとも暗黙のうちに、次の点にも同意している。能力に基づいて入学する学生は入学を勝ち取ったのだから、それによってもたらされる恩恵にあずかるに値するというのである。

よく目にするこうした見解が正しいとすれば、能力主義の問題は、その原則にではなく、われわれがそれに従っていない点にあることになる。保守派とリベラル派の政治的議論を見てもそれがわかる。われわれの国民的議論は、能力主義そのものではなく、いかにしてそれを実現するかに関するものだ。

たとえば保守派は、人種や民族を入学者の選考要素とする積極的差別是正措置(アファーマティヴ・アクション)政策は、結局のところ、能力に基づく入試を裏切るものだと主張する。リベラル派は、いまだに残る不公正を是正する手段としてアファーマティヴ・アクションを擁護し、真の能力主義を実現するには、特権を持つ人びとと不利な立場にある人びとのあいだで条件を平等にするしかないと主張する。

だが、こうした議論は、能力主義にまつわる問題がより根深いものである可能性を見落としている。

もう一度、入試スキャンダルについて考えてみよう。世に湧き起こった憤慨の大半は、不正行為やその不公正さに向けられていた。だが、それと同じくらい問題なのは、不正行為を突き動かした考え方だ。スキャンダルの背後には、いまでは実にありふれているため気に留められることもほとんどない想定があった。

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