沖縄で「安室奈美恵とDA PUMP」が生まれた理由 米軍の存在が音楽にもたらした小さくない影響

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そうした状況のなか、在日アメリカ軍の存在が文化面、特に音楽面にもたらした影響も小さくなかった。戦後日本のポピュラー音楽は、アメリカ軍基地とその周辺にあるジャズ喫茶などの音楽関連施設を通じて発展した面がある。たとえば、大手芸能事務所・渡辺プロダクション創設者の渡邊晋は、アメリカ軍基地などで演奏するジャズミュージシャンだった。また西城秀樹は、アマチュア時代に岩国基地などで演奏していた。

フィンガー5も同様で、父親がアメリカ軍関係者向けバーの経営者だった。小さいころからアメリカのポピュラー音楽に慣れ親しんだ彼の子どもたちは、バンドを結成。沖縄のテレビ番組でのコンテスト優勝をきっかけに上京、「ベイビー・ブラザーズ」としてデビューを果たす。

だが思うような結果が出ずあきらめようとしていたところに、再デビューの話が持ち上がる。こうして誕生したのが、マイケル・ジャクソンがいた同じきょうだいグループであるジャクソン5をお手本にしたフィンガー5だった。

沖縄アクターズスクールの教え

そして1990年代、沖縄から再びアイドルの大きな波が巻き起こる。とりわけこの時代、人気の重要な要素になったのがダンスだった。その象徴的存在になったのが、言うまでもなく安室奈美恵である。1990年代中盤、ユーロビートのカバー曲で注目された安室は小室哲哉のプロデュース曲で数々のヒット曲を世に送り出した。そして彼女とほぼ軌を一にするように、同じ沖縄出身のMAX、知念里奈、SPEEDらも次々とブレークを果たす。

彼女たちにはもうひとつ共通点があった。それは、沖縄アクターズスクール(1983年開校)という養成スクールの出身だったことである。スクールの設立者であるマキノ正幸によれば、安室奈美恵と初めて会ったのは彼女が10歳のとき。彼はそのダンスの才能にひと目で心を奪われた。「ふっと身体を揺らすだけで、もう違う。普通の子なら、身体を動かすと、脚もスカートのすそも同じ方向に揺れる。ところが、その少女は、腰にタメを作って自然に身体をひねるから、スカートのすそがひるがえって、身体にまとわりつくような動きになる」(マキノ正幸『才能』講談社、1998年、15ページ)

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