英国知識人を見事だました「嘘の台湾誌」の内容 希代のペテン師執筆、見抜いたのはあの科学者
きっかけは、当時の王立協会会長を務めていたアイザック・ニュートンでした。ニュートンは、サルマナザールが語る“台湾観”については「概ね正しい」としながらも、記述そのものは、過去の日本と台湾に関する史料の引き写しにすぎないと指摘しました。
残念ながら、歴史観については完全に的外れな批判です。ところがここにきて、意外な展開が待っていました。それまでサルマナザールを陰に陽に支えてきたイネス牧師が、ニュートンという超大物の登場に怖気づき、このペテンから手を引いてポルトガルへと旅立ってしまったのです。
大事なビジネスパートナーを失い、自身の虚言に耐えきれなくなってきたサルマナザールへ、ついにとどめの一撃が下ります。アイザック・ニュートンの盟友にして、「ハレー彗星」の周期性の発見などで知られるエドモンド・ハレーが、「台湾の地下の家屋は1日にどの程度煙突から日が差し込むか」など、正解の存在する質問を投げかけたのです。
さすがのサルマナザールも、科学と計算の力で武装した「事実」には、まったく太刀打ちできません。答えに窮したサルマナザールは、追及から逃げるような沈黙の期間を経て、最後はこれまでの行いをすべて自白したのです。こうしてサルマナザールの輝かしい日々は終わりを告げました。
その後はゴーストライターで生計を立てていた
虚飾を保ち続けることに疲れたサルマナザールは表舞台から姿を消し、のちにその知識と執筆能力を生かして、ゴーストライターなどの文筆業で生計を立てていたようです。
匿名で引き受けた仕事では、皮肉にも台湾の地理に関する執筆もありました。そのなかでサルマナザールは、『台湾誌』の記述を痛烈に批判しています。
彼が最後に「ジョルジュ・サルマナザール」の名で書き上げた著作は、自身の回顧録です。出版されたのは死後2年を経てからでした。
『***の追想録』と題され、本来であれば自らの名が入るべき箇所が伏せ字となっています。
最後まで真の名を明かさずに死んでいった「彼」の『追想録』が、どこまで真実であるのかは定かではありません。あるいは、私たちはいまもなお「『台湾誌』という虚構を描いた男」という、大ペテンにかけられているのかもしれません。
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