坂本龍馬が岩崎弥太郎に強引に金をせびった訳 教科書ではわからない幕末の志士たちの懐事情

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しかし亀山社中は、度重なるアクシデントに見舞われ、金銭的に瀕死の状態になってしまった。そこで、土佐藩に、金銭的な「尻拭いをしてもらう」のが、龍馬にとっての「海援隊結成の目的」だったと言えるのだ。

土佐藩の海援隊に対する資金援助は、具体的に言えば、大極丸の支払いのほか、隊士一人あたり月5両の支給だった。当時、土佐藩の長崎への留学生には、月8両支払われていたので、これはあまりいい待遇とは言えないかもしれない。が、海援隊は自給自足が原則であり、土佐藩からの支給は補助的なものなので、この程度の額になったのだろう。

しかも、亀山社中時代の薩摩藩から支給されていたのは、一人あたり月3両2分だとされており、それに比べれば「給料」は上がったと言える。

三菱財閥の祖・岩崎弥太郎との関係

海援隊が創設されると、その会計係になったのが、かの岩崎弥太郎である。岩崎弥太郎とは、もちろん三菱財閥の創業者のことである。

弥太郎は龍馬よりも1歳年上で、土佐藩で身分の低い地下浪人の家に生まれた。弥太郎の岩崎家は、困窮のために武士の家格を売ってしまい、地下浪人になっていたのだ。

この状況を抜け出すために、弥太郎は学問に打ち込んだ。14歳のころには、土佐藩主の前で漢詩を披露したという。

21歳で江戸に出て、当時、朱子学の大家だった安積艮斎(あさかごんざい)の塾に入る。が、父親が傷害事件を起こして投獄されたため、無実をはらすため急遽、土佐に戻ってくる。

しかし、弥太郎の抗議活動があまりにも激し過ぎ、役人の反感を買って、彼までもが投獄されてしまう。その後、弥太郎は、土佐で私塾を開いて糊口をしのいだ。

また、そのころ弥太郎は、吉田東洋が蟄居中に開いていた私塾に、塾生として入っていた。この塾で、同じ門下生だった後藤象二郎などと知り合う。

これにより、地下浪人だった弥太郎は、土佐藩の役人としての道が開かれた。はじめは下横目という、もっとも下っ端の役人に取り立てられ、事務処理能力の高さからとんとん拍子に出世することになる。

慶応3年には、長崎の土佐商会の会計を任されるようになった。土佐商会というのは、土佐藩の貿易をつかさどる出張所である。外国から蒸気船などの武器を買い入れ、その代金として土佐藩の物品を販売する、そういう事業をおこなっている機関だったのだ。

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