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坂本龍馬が岩崎弥太郎に強引に金をせびった訳 教科書ではわからない幕末の志士たちの懐事情

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弥太郎がちょうど長崎に赴任したとき、龍馬の海援隊が当地で発足する。

そのため土佐商会は、海援隊の会計も見ることになった。土佐商会において事実上の責任者は弥太郎だったので、必然的に海援隊の会計を取り仕切ることになったのだ。

龍馬の強引な無心

龍馬は、この弥太郎にかなり強引に金をせびっていたようだ。たとえば、こういうエピソードがある。前述したように、海援隊は一人あたり毎月5両の給料を土佐藩からもらうことになっていたが、その給料を支払う役目を弥太郎が担っていた。

慶応3年4月、海援隊の初めの給料日のとき、弥太郎は、給料を受け取りにきた海援隊士に100両渡す。しかし、その100両を受け取った後、龍馬から弥太郎のもとに「俺の給料はどうした?」という使いがきた。

弥太郎は「海援隊士は全部で16人だから、100両で十分なはず。後藤もそれでいいと言った」と言い返す。これに対して龍馬は「隊長の給料は別だ」と言い返した。弥太郎は仕方がなく、自分からの餞別として、金50両を龍馬の元に持って行った。そのときのことを、弥太郎は日記にこう書いている

<岩崎弥太郎の日記1>
[原文]才谷(龍馬の変名)喜悦し、酒を出し、かつ飲みかつ談じ、当時人物条理の論を発し、日すでに黄昏に迫りて辞去す
[訳文]龍馬は喜んで、酒をふるまってくれた。飲んで語り合い、当世の人物評などをするうちに日が暮れてようやく帰った。

隊員の給料とは別に自分の給料を請求するとは、弥太郎も困っただろう。かといって、龍馬は金にがめついというわけでもなかった。

というのも、龍馬はかなり高名な志士であり、金を得る機会も多かったのだが、死んだ後、財産らしい財産はほとんどなかったのである。

もともと、海援隊の活動以前に、龍馬と弥太郎とは深いつながりがあった。共通の知人が多いのである。海援隊で龍馬の右腕と言われた近藤長次郎や、龍馬の古くからの同志だった池内蔵太は、弥太郎が私塾をしていたときの門弟なのである。

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弥太郎は、ジョン万次郎の一代記を書いた河田小龍とも交流があったが、これも龍馬と共通している。また司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の中では、龍馬と弥太郎は遠戚だったというふうに書かれている(筆者にはこの点についての確認はできなかった)。

いずれにしろ、海援隊で出会う前に、土佐で言葉を交わすくらいの関係だったことは大いにあり得るところである。この弥太郎と龍馬は、長崎では、よく酒を酌み交わしたようだ。たとえば弥太郎の日記には、次のような記述がある(慶応3年6月3日)。

<岩崎弥太郎の日記2>
[原文]午後、坂本良馬来りて酒を置く。従容として心事を談じ、かねて余、素心の所在を談じ候ところ坂本掌を打ちて善しと称う
[訳文]午後、坂本龍馬が来て酒を酌み交わした。常日頃、自分が考えていたことを話したところ、坂本は手を打って「よし」と言った。

また弥太郎は、龍馬と後藤が大政奉還実行のため、京都に旅立つのを見送ったとき「思わず涙が落ちた」とも日記に書き残している(慶応3年6月9日)。

龍馬のほうも、陰に陽に面倒を見たようで、土佐商会のことを、自分の友人である他藩の要人たちに紹介する手紙が残っている。

弥太郎のつくった「三菱」は、龍馬の発想を受け継いだ、と多くの歴史家から言われている。実際、弥太郎は、明治維新以降、海援隊の船などを引き継ぎ、瀬戸内海の海運業を一手に引き受けることで、三菱財閥の基礎を築いた。

まさに龍馬がやろうとしていたこと、そのものだったのである。弥太郎は、龍馬と酒を酌み交わすほどの関係だったからこそ、龍馬の発想を受け継ぐことができたと言えるだろう。

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