上杉vs武田「川中島」宿敵対決が持つ歴史的意味 第4次は足利将軍を巻き込んだ天下の大戦に
第3次で恒久的に終結させられたはずの川中島合戦は、第4次においてその発生経緯がそれまでと大きく異なっていたのだ。小笠原長時の帰国を大義として、京都ならびに関東の情勢を中心とする天下の政局と連動して勃発したのである。第4次川中島合戦は、関ヶ原合戦が西美濃現地の争奪戦ではなく、政局中心の決戦であったのと同じように、天下の行く末を定める決戦として現れたのだ。
川中島合戦は第3次まで北信濃の覇権をめぐる地域の局地戦だったが、第4次だけはそうではなく、上杉政虎に東国情勢を塗り変えさせようとする将軍の思惑があった。そして信玄が政虎の関東侵攻を妨害するべく越後に進撃したことが契機となった。
優れた諜報能力を持つ武田家は、政虎の思惑と、将軍の裏切りをそれとなく察していたであろう。ただ、将軍と政虎の共謀証拠を得ることは困難で、仮に陰謀を論証する材料を揃えられたとしても、訴える先がどこにもなかった。するとこの窮境は、善悪を唱えても意味がなく、実力で乗り切る以外になかった。こうして信玄は否応なく、ふたたびあの敵と対戦する運命に導かれていったのである。
政治思想が対極だった信玄と謙信
ちなみに武田信玄は、第3次合戦後の永禄2(1559)年9月1日に、信濃の「下郷諏方大明神(生島足島神社)」に対して、「長尾景虎をたちまち北方へ追い返して撃滅する」ことで「信玄が望むような勝利を得る」ことを祈る願文を捧げている。
ここに、信玄の強硬姿勢がよく示されている。越後の軍勢がやってきたら撃滅すると明言することで、信濃支配を固める覚悟であった。
ところで甲斐武田家の者たちは、今の世は「天下戦国(てんがせんごく)」だと述べていた(「甲州法度之次第」)。この時代を戦国の世であると言い切る大名は、信玄の時代はほかにいなかった。
つまり武田家だけが「今は古代中国の春秋戦国と同じだ」と考え、「ならばその時代を手本にしよう」とばかりに、御家を国家同然に見立てて家中を組織化し、富国強兵を念頭に独自の法度や軍法を整え、理知的な戦略と計略を推進してきた。そうした「戦国」を是認する権力体が、武田信玄という大名家だった。
かたや越後長尾家は、戦乱に乗じて勢力拡大や濫妨狼藉を働く輩を忌み嫌っていた。平和を前提とする社会を実現するため、当主たる政虎自身が自分の戦いを「順法之弓矢」であると理念を前面に押し立てて、「戦国」の否認に邁進していた。
両雄ともに同じ世に生まれ育ちながら、戦国の“是認”と“否認”という対極の政治思想に突き動かされていたといえる。その衝突は戦国の是非をめぐる必然の決戦であったのかもしれない。
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