上杉vs武田「川中島」宿敵対決が持つ歴史的意味 第4次は足利将軍を巻き込んだ天下の大戦に
天文19(1550)年、武田晴信(信玄)は、信濃守護小笠原長時を深志城から追い払って、3年後には村上義清に戦勝した。もはや向かうところ敵なしの勢いに、打つ手なしとなった北信濃の諸士たちは、隣国越後を統治する長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めて、快諾を得た。
こうして天文22(1553)年第1次川中島合戦が始まった。景虎は決戦を希求したが、これを回避される形で戦局が定まった。合戦は、双方ともに一定の武威を示す形で終わった。続いて天文24(1555)年の第2次である。200日に及ぶ長期戦になったところに、駿河の今川義元が仲介の労を買い、これも勝負つかずの結果に終わった。
弘治3(1557)年の第3次は、さらに緊迫の色合いを増す北信濃情勢により、景虎は対決姿勢を強め、晴信も相模の北条氏康からの援軍を得ていた。ここでも明確な勝負はつかなかった。ただ、ここまで両軍ともその消耗戦に疲れたのか、東国随一の大名今川家よりも上の権力からの仲介を得て、恒久的停戦を妥結することになる。
その権力とは、畿内の幕府であり、将軍・足利義輝であった。足利将軍の仲介で両雄の停戦が妥結された。ここに北信濃をめぐる地域紛争は終了したのである。
信濃守護就任を反故にされた武田氏
武田晴信は停戦案を受諾する代わりに、将軍に信濃守護職の公認を求めた。もとの信濃守護である小笠原長時は、その晴信に居城を制圧されて、景虎を頼ったあと、側近たちと共に上洛して三好長慶の庇護を受けていた。長時がまだ健在なのに晴信が信濃守護になれたのは、将軍が長慶を敵視していたからだろう。当時の将軍は三好政権に京都を逐われ、近江に亡命政府を置くほどの落ち目にあった。晴信は、この状況を利用したのだ。
ただ、義輝が長慶と和睦して帰京し、さらに景虎が上洛して幕府に直接奉公をすることで、雲行きが変わってきた。今の幕府は、表向き三好政権と合体していた。ここで三好長慶は義輝に、「和睦の証として小笠原長時を信濃守護へ戻せないか」と伝えていたであろう。景虎も「晴信はこんなに悪い大将です」と主張したに違いない。将軍は、晴信に信濃守護職を与えた過去を取り消すべき状況にあった。
京都から帰国した景虎は、関東に越山して奮闘した。これを聞いた将軍は、永禄4(1561)年閏3月4日付の御内書にて、景虎に小笠原長時の信濃帰国を支援するよう下命した。
長尾弾正少弼(景虎)とのへ
これは武田晴信の信濃守護就任を反故にするのと同じである。将軍は、晴信切り捨てを決断したのだ。景虎による信濃侵攻の正当化を支援するためだった。景虎あらため政虎が「上意である」とこの御内書を大義名分に触れて回れば、武田に属した現地諸士を離反させることも可能となる。
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