復興バブル一因…震災10年で増す「石綿」の恐怖 ずさんな建物の解体処理、問われる行政の責任
石綿の危険性知らず被災地支援に
「もう10年前になりますけど東日本大震災後、パッカー車(ゴミ収集車)を持って宮城県気仙沼市に支援業務で行ったんですよ。仮設住宅や避難所のゴミ収集を向こうの職員と一緒にやっていました。上司から防じんマスクを支給されて業務に当たりましたけど、向こうの職員はマスクなしでしたね。当時は石綿の危険性なんてまったく認識していませんでした」
こう振り返るのは、兵庫県明石市の元職員・吉田秀夫さん(62)である。
2011年3月の東日本大震災から3カ月後の同年5月ごろ、明石市による支援業務が始まった。期間は計8週間。1派で1週間活動して帰途に就く。吉田さんは初回と最後の2回現地に入ったという。
気仙沼市では大津波によって市街地が消失し、大型漁船は陸に何隻も取り残されていた。3カ月ほど経っていたこともあって比較的片付いていたというが、道路脇では、がれきが山積み。当然、建材も交じっている。吉田さんらは同市の職員とそれぞれペアを組んで仮設住宅などのゴミを収集し、時間があれば、がれきが山積みされている所に行って、ふとんなどの可燃物を引っ張り出して回収した。
「不燃物はパッカー車でつぶしてました。(石綿を含む)建材があれば飛散したでしょうね。危険を知ってたらできませんよ」
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