遺伝子デジタル情報の取り扱いの問題もある。今後、テクノロジーの発展により、病原体そのものではなく、病原体の遺伝子デジタル情報のみを用いてワクチンなどを開発する技術が普及する可能性が想定されている。現時点で、PIPフレームワークや名古屋議定書が、病原体の遺伝子デジタル情報にも適用されるかは結論が出ていないが、適用されれば、将来の円滑な研究・開発・製造に影響を及ぼしかねない。
このように、病原体、すなわち感染症危機管理のチョークポイントをめぐる国際政治は、日本国内のワクチン企業の研究開発と利益に加え、国民へのワクチン安定供給に大きな影響を及ぼす可能性のある、経済安全保障上の重要な問題なのだ。
「未知の感染症」が発生したときの問題
新型コロナ危機は、病原体をめぐる国際政治に再び課題を投げかけた。新型コロナ危機対応の初動において、中国が病原体を共有しなかったからだ。その後、あっという間に各国が自国内に病原体を保有することになったため、結果的に問題にはならなかった。しかし、拡散力は劣ってもが致命率が高く、結果的に多くの死者を出す可能性のある「Disease X(未知の感染症)」が発生した場合には、病原体をめぐるABSが大きな問題となる。
このような事態を想定したのか、WHOは、ワクチンなどの危機管理医薬品を「国際公共財」とみなしてその研究開発を促進するために、人類に脅威を及ぼす病原体を一体的に保管することを目的として、タイ、イタリア、スイスと連携し、2020年11月に「BioHub」というプロジェクトを発足。病原体の保管場所にはスイスのBSL4施設(危険な病原体を扱うことのができる研究施設)が指定され、2021年1月時点で南アフリカが新型コロナの変異株を早速提供している。
以前(「日本が「国産ワクチン」開発できていない背景)、日本がとくに強い脅威認識を持つべき感染症は、新型インフルエンザとDisease Xの2つであると述べた。PIPフレームワークは新型インフルエンザウイルスを対象とし、BioHubはDisease Xを対象としている。現時点では、PIPフレームワークとは異なり、BioHubへの病原体の提供は「任意」だとWHOは述べている。しかし、各国の出方次第では、BioHubがDisease Xに関するABSを担保するための強力な枠組みと変貌する可能性もありうる。
BioHubは、Disease Xに対する感染症危機管理のチョークポイントが締まらないようにするための国際公共財として機能し、国際公益に資する可能性はある。しかし、同時に、日本のワクチン企業や国民へのワクチン安定供給に影響を及ぼす負の側面もないとは限らないため、注視して行く必要がある。
PIPフレームワーク・名古屋議定書・BioHubなど、感染症危機管理のチョークポイントを巡る経済安全保障の問題は、複雑である。日本政府でもこの問題について十分に理解している人間はほぼいないと考えられ、日本として今後の対応を考える上で大きな課題である。
また、日本が産業界と国民を保護するという国益を守りつつ、国際公益にも貢献するためには、官民の連携が必須である。政府は産業界に対して、PIPフレームワーク、名古屋議定書、BioHubに関する国際社会の議論の内容をタイムリーに共有して対策を促す必要があるし、産業界は政府に対して要望や課題をつねに共有し、国際社会における政府の外交交渉を支えなければならない。
感染症危機管理に関する地経学的競争を優位に進めるべく、常設の官民協議の設置も求められる。これは、感染症危機管理のチョークポイントをめぐる争いに対して、国益と国際公益を比較し、日本が外交においてとるべき対策を提供する基盤となるだろう。
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