須賀:物事をよく知っている人の意見を尊重しなくてはならないということではありませんよね。
待鳥:はい。もちろん、いい意見が政策に反映されたほうがいいわけですが、それは民主主義の原理とは本来関係がありませんし、むしろ逆の立場、民主主義の限界や課題の話ですね。だから、勉強して知識を増やしてから意見を言うべきだ、いい意見が重視されるべきだと、民主主義の名の下に語るのはよろしくない。そういう主張をしてもいいけれど、それは民主主義とは異なった原理に依拠しているという自覚が必要です。民主主義の名の下に誰かを排除するのは邪悪なのです。
だからこそ民主主義、とくに直接民主主義をどのように位置づけるかを、技術的に可能であったとしても原理原則の問題として考えねばならないわけです。民主主義は最も大事な原則の1つですが、現代社会における意思決定のための唯一の原則だとは考えないほうがいい。代議制は、誰でも自由に意見を言えて排除されるべきでないが、いい意見をできるだけ政策決定には反映させたい、そのあたりのバランスを取りやすい仕組みだと思います。
政党の可能性
須賀:今こそ代議制民主主義の意義や重要性をもう一度説明する、理解してもらう必要がありますね。コロナ禍において、若者が失っている機会損失や目に見えない負担が社会にとって大きなリスクであるという指摘がありますが、「シルバー民主主義」とも言われる超高齢社会において、若者世代の意見を増幅させて社会に伝えていくために、あえてデジタルを重用する、踏み込んで使うということはありうるのでしょうか? それも邪悪な民主主義になるのでしょうか?
待鳥:デジタルにできることは多いですが、それだけで若者世代の意見が通りやすくなるとは思いません。パンデミックによって、若者世代に対して目に見えないしわ寄せが行っていることは、非常に重要な論点だと思っていますし、大人にとっての1年の価値と、若者にとっての1年の価値はまったく異なります。だから、若者世代の意見が通りやすくなる仕組みを考えることには大きな意義を感じます。
しかし、政治の場において若者の意見を少しでも補完する、増幅させるために、デジタルテクノロジーをどのように活用していくかに関しては、デジタルの技術的な可能性に注目するだけでは不十分で、それとは別に、現在の代議制にどのような課題があるのか、とくに政党の役割を改めて定式化しないとうまくいかないと考えています。デジタルなどの新たなテクノロジーの実験や熟議を行う場所として、政党の役割を再定義するとともに、政党が持つ可能性はきちんと見直されるべきだということです。
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