コロナ後に来るべき人間や環境にやさしい社会 「参加と協働」が生きる社会へ変われるか

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直接人と会わない寂しさはある。それゆえに人と会って議論することの意味が理解できたはずである。会社の人ではなく、なにか本当に語り合える人と語りたいという気持ちが、なぜこれほど出てくるのか。

あえて言えば、コロナは次の世界に進むための神が与えた最終警告なのかもしれない。新しい社会や体制は、なかなか見いだせないことも確かだ。ただ、方向性だけは、ある意味で見えてきた気がする。よそよそしい権力や地位というものとは関係のない、そうした小さいけれども参加する意味のある、地に足の着いた組織の必要性だ。私はそれを「労働と参加の組織」だといいたい。

地に足の着いた「労働と参加の組織」が必要だ

スペインのバスク地方にモンドラゴンという町がある。そこではもう長い間、協同組合組織によって学校や企業が営まれている。大資本による競争という問題さえなければ、こうした企業は町に根を下ろしているがゆえにきわめて強い。

資本主義の要でもある所有権という意味を、私は最近こう考えている。所有権は排除の権利だと。国有であろうと私有であろうと、所有権であるかぎり同じだ。なぜなら、2つとも排除の論理に結びついているからである。私的に排除するか、国家的に排除するかは違うが、つねに排除されるものが前提されている。

所有権を排除することは、社会主義の要でもある。しかし国家社会主義体制では、結局国有として積極的に所有権を認めることになったのだ。私的所有を揚棄することは、それを誰が持つかという法的所有の問題ではなく、それに対してどう積極的に人々が参加できるかという経済活動の問題であると思う。だから国家や企業に民衆が参加することが要求される。そう考えるとモンドラゴンの企業は、未来を意味しているのかもしれない。

土地に根差すと、土地や環境を破壊してまでも利潤を得ることなど考えることはない。かつて自主管理という言葉でいわれていたものがそれである。未来を予測することは難しい。筆者も70年生き、ソ連や東欧、ヨーロッパやアメリカ、アジアなどを見てきて、つくづく感じることがある。それは、人々が社会や自然を壊さず、参加と協働で生きている社会は生き生きしているということである。資本主義の次にくるものは、巨大な生産力や物的豊かさを達成する社会ではなく、人間や自然環境を壊すことのない社会であってほしいと願うばかりである。

的場 昭弘 神奈川大学 名誉教授

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まとば・あきひろ / Akihiro Matoba

1952年宮崎県生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了、経済学博士。日本を代表するマルクス研究者。著書に『超訳「資本論」』全3巻(祥伝社新書)、『一週間de資本論』(NHK出版)、『マルクスだったらこう考える』『ネオ共産主義論』(以上光文社新書)、『未完のマルクス』(平凡社)、『マルクスに誘われて』『未来のプルードン』(以上亜紀書房)、『資本主義全史』(SB新書)。訳書にカール・マルクス『新訳 共産党宣言』(作品社)、ジャック・アタリ『世界精神マルクス』(藤原書店)、『希望と絶望の世界史』、『「19世紀」でわかる世界史講義』『資本主義がわかる「20世紀」世界史』など多数。

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