こんまり夫が「市長になる夢」諦め目指す高み 猛烈営業マンから妻のプロデューサーに転身
川原は1984年、広島県尾道市の生口島(いくちじま)で生まれた。生口島は約900トンの生産量を誇る日本一のレモン産地で、ほかにも多彩な柑橘類が栽培されている。農業が盛んな、のどかな島で幼少期を過ごした川原は、「半袖、短パンで、ビックリマンチョコをひたすら食べて、キラキラシールを集めるのが生きがい」という、どこにでもいるような元気な少年だった。
しかし、自衛官の父親が働く基地があった呉市に引っ越してから、風向きが変わった。父親は厳格で怖い存在だったため、怒られないようにつねに気を張っていた川原は、「学校で先生が質問をしたら、自分からパッと手を挙げて答えるような、いわゆるいい子」だったという。
呉市の小学校では、やんちゃな子どもたちにその優等生ぶりを見とがめられ、いじめの対象になってしまった。そのいじめから逃れるために、やんちゃグループの仲間になった。それから中学、高校でも「ちょいワル」時代が続く。
「最初の頃は、やむをえずという感じだったけど、思春期に入って女の子を意識し始めて気づいたんです。そっちのほうがモテたんですよね(笑)」
地元の仲間は、高校を卒業したらほとんどが就職した。そのなかで、冒頭に記したように川原は「東京の大学に行って、市長になる」と宣言し、受験勉強に励んだ。それは、高校の修学旅行で初めて訪ねた東京の存在が大きかった。そのときに「雑誌で見た世界!」と胸を躍らせた川原は、どこか閉塞感を抱いていた地元から飛び出し、東京を目指すことで、自由を求めたのだ。
両親に送った「血判状」
2003年春、神奈川大学に入学。さあ、これから楽しいキャンパスライフが始まるぞ! という期待は、すぐに萎んでいった。大学の雰囲気になじめず、同級生とも話が合わなかった。率直に言えば、つまらなくて、幻滅した。しかし、せっかく親からお金を出してもらって都会に出てきたのだから、その機会を無駄にすることはできない。川原は、意を決して親に電話をした。
「うちはそんなに裕福でもないのに、私立に行かせてもらって、お金もかかっているとわかってます。でも、大学に行きたくありません。本当に申し訳ないんだけど、4年間、時間をください。大学じゃなく、社会勉強をして、自分がどう生きていくのかを見つけたいです」
川原の訴えを黙って聞いていた父親から返ってきた言葉は、「血判状を書け」。ここで、断るという選択肢はない。翌日には、「川原卓巳は大学に行かないかわりに、4年間、社会勉強をして生き方を見つけます」と記した紙に拇印を押して、実家に郵送した。さすがに拇印は自分の血ではなく朱肉で押したが、両親に宣言し、許可を得たことで、なにもせずに遊んでいるわけにはいかないと腹をくくるきっかけになった。
それからは、アルバイトに没頭する日々。働きながら「社会」や「世の中」のリアルを知るのは想像以上に刺激的で、毎日があっという間に過ぎていった。その間に、髪を伸ばして茶色に染め、仲間たちと遊びながら、恋もした。
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