こんまり夫が「市長になる夢」諦め目指す高み 猛烈営業マンから妻のプロデューサーに転身

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まず、仮説を立てた。整骨院や整体院の経営者が人材に困っていることは、それまでの営業で知っていた。そのなかでも、広告を出す、複数の店舗を出すなど、経営がうまくいっていそうなところをリストアップし、手紙を書いてセミナーの概略をまとめたCDと一緒に郵送した。その郵便が到着した頃に電話をかけて、セミナーに参加しませんかと営業した。その方法で、初めて1週間に5件の契約を取った。

この成果を認められて、2年目は人事部に移動となり、新卒採用の担当に抜擢された。そこでも上司の厳しい指導を受けながら、がむしゃらに働いた。その年、A社の新卒採用には8500人の学生がエントリーし、就職先人気企業ランキングにも入った。

「このときは、社会人人生でも3本の指に入るぐらいきつい働き方してましたね。ずっと、レッドブルと寝てました。でも翼は生えません(笑)」

会社員をしていた2010年頃の川原さん。猛烈に働いていたという(写真:川原さん提供)

3年目、営業に戻りたいという希望がかない、再び、3日で18万円するセミナーの営業に戻った。その頃には、会社のお金でさまざまな交流会に参加させてもらうようになり、毎日200軒に電話をしなくても契約が取れるようになった。気が緩んだ川原は、手抜きを覚えた。

それが上司にばれて、大阪に飛ばされたのが5年目。いわゆる左遷だったが、大阪行きは川原にとって大きな転機になった。

「当時の大阪支社長が、僕のことを認めてくれている女性だったんです。しかも、大阪のほうが東京より成績がよくて、大阪でなにが起きてるんだろうという興味もあったので、彼女のもとで仕事してみたいと思っていたんです」

充実の大阪時代、近藤さんとの仲も深まって…

大阪支社は東京よりものびのびした雰囲気で、同僚とも気が合った。関西では東京時代の顧客を手放してイチからの顧客開拓ながら、5年間、東京で鍛えられた川原にとっては、むしろやりがいを感じる環境だった。この頃には、「営業は天職」と自覚するようになっていて、飲み屋の隣席の見知らぬ人に話しかけて、契約を取ったこともあった。社内でも評価され、人材教育に関する講演会で西日本の各地に出張する機会も増えた。

この「究極的に楽しかった」という大阪時代に、近藤さんから「大阪に行くので、会いませんか?」と連絡がきた。1年目に顧客を紹介した後もたまに連絡を取り合う関係が続いていたが、当時の近藤さんは2010年末に出版した『人生がときめく片づけの魔法』が大ベストセラーになり、テレビにも引っ張りだこの有名人に。ところが、川原さんの5.5畳のアパートにはテレビがなく、書籍のヒット以外の情報をほとんど把握していなかった。

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