一橋家に任官した渋沢は、出入り口の番人や渉外の事務などの任務をこなす。そして平岡からの要望を受けて、一橋家の人材採用にまで携わることになる。渋沢が大いに張りきったことは言うまでもない。
「広く天下の志士からよい人材を選び、一橋家で召し抱えましょう」
一橋家の家臣として、数年ぶりに故郷に帰った渋沢。「たとえ俸禄が少なくても一橋家ならば奉公したい」という志がある者を50人ばかり一橋家に仕えさせた。
このときに勘当された父とも密会している。過激な攘夷を唱えて出て行った息子の成長ぶりに、目を細めたことだろう。
資本を造るより、まずは信用の厚い人になる
のちに実業家になってから、渋沢はこんなことを言っている。
「世に立ち、大いに活動せんとする人は、資本を造るよりも、まず信用の厚い人たるべく心掛けなくてはならない」
一橋家において、渋沢はまさにこの「信用の厚い人」となった。与えられた任務を遂行しただけではない。提案力が豊かな渋沢は、与えられるポジションが高まるほど、一橋家の問題点を見抜き、対策を講じている。
そのうちの1つとして、渋沢は一橋家には軍備が不足しているのを課題とした。現状の軍備では、とても京都を警護することなどできない。
そこで渋沢は、領地から農民を集めて歩兵隊を編成することを提案。ただし「なぜ、歩兵隊を募るのか」、その理由をきちんと説明することが大事だと、渋沢は強調した。
「募集の意図を理解させて『この応募は完全に領民の義務である』と、自ら進んで応募してくるようにしなければならない」
渋沢自身も呼びかけに乗り出して、任務の重要性と募集の意図を領民たちに、丁寧に説明。450人以上の志願兵を集めることに成功した。
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