名古屋発「フルーツ大福弁才天」驚きの誕生秘話 東京や大阪にも出店、2021年に50店舗の見通し
大野さんは名古屋市天白区で生まれ育ち、高校卒業まで過ごした。高校時代はビートルズに傾倒していたそうで、詰襟の学生服をジャケットに改造して、ギターケースの中に教科書を入れて通っていたという。
「当然、毎日職員室に呼び出されるわけです。当時は柄シャツを着ていたので、それを注意されました。『生徒手帳に書いてあるだろう』って。だから、校則として定められていない白いワイシャツにネクタイをしていました。先生も諦めたのか、何も言わなくなりましたね」と、大野さん。
いやいや、注意すべきは柄シャツよりもジャケットに改造した学生服だと思うが(笑)、なぜかそれは不問だったらしい。名古屋人はお上に弱くて保守的といわれる。アナーキーな大野さんにはさぞかし窮屈だったと思う。友人たちも「淳平君は東京のほうが似合っている」と言うので、卒業後は明治大学英米文学部へ進学した。
「東京へ出たら、ミュージシャンなのか、それとも役者か、芸人なのか、何かわからないけど、何者かになれると思い込んでいました。でも、なれなかった。何もしていないんだから当たり前ですよね。ホームシックになって、卒業後は名古屋へ帰ってきました」
サラリーマンにはなりたくないし、それ以前に社会に出るというイメージすら描くことができなかった。それでも就職しなければならないと思い、友人の父親が経営する工業系の商社に入社した。
「社会不適格者」のレッテルを貼られた会社員時代
仕事は取引先を訪れて「御用聞き」をするルート営業。厳しいノルマがあるわけでもないので仕事はラクだった。休みも多く、給料も不満はなかったものの、心は満たされなかった。とはいえ、何かやりたいことがあるわけでもない。平日はガマンして働いて、土日はのんびりと過ごす。当時はそんな人生も悪くないと思っていた。
入社して1年が過ぎた頃、ささいなことで社長と口論になり、その場で会社を辞めた。
「社長から『お前は社会不適格者だ!』と言われました。腹が立ちましたけど、絶対に見返してやると思いましたね。小さくてもよいから自分の城を持ちたいと思ったのはこの頃でした」
“自分の城”として、小さなカフェを開くことも考えた。が、どう考えても成功する気がしなかった。そこで、カフェ経営をゴール地点に定めて、そのために何をすればよいのかを考えた。さらに、転職するにあたって、前職のように居心地がよいと甘えてしまうので、自分自身を追い込めるような職場を選んだ。
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