「言語はツールにすぎない」という大いなる誤解 簡単さや効率性を求める結果起きてしまうこと
国語をめぐって起こっている問題の本質は、一体何でしょう。それは、「ことばをツールだと思っている」ところにあるのではないか、これが私の基本的な見方です。つまり、ことばの捉え方が根本的に間違っているのではないか、そう考えています。
きちんと説明する必要がありそうですね。ツールと聞いたら、ほとんどすべての人は、「みんな普通、そう思っているんじゃないの」と答えるだろうと思うからです。
日本語、英語、私が研究で普段読んでいる古典ギリシア語など、言語はさまざまですが、基本的に、語学を学ぶのは何かに使うため、つまり言語はツールだと考えられています。
日常のコミュニケーションも含めて、仕事に役立てるとか、海外で料理をオーダーするとか、そういった場面を念頭において、言語を学ぶからです。そのように、私たちは通常、ことばは一種のツールだと思っているはずです。
ツールは「効率」によって評価される
私も「ことばはツールではない」と全面否定するわけではありません。実際、海外旅行の際には即席で現地の日常会話を学んだりしますからね。ですが、ことばを単なるツールに過ぎないと思い込むことで、大きな間違いがいろいろな形で生じているのではないか、と考えています。この論点が、まず何よりも大切です。
どのような問題が生じるかというと、ツールだったら、どちらのほうが良いか、といった議論になってしまいます。ツールとしてどちらを使うのが便利か、効率が良いか、という観点に縛られます。
例えば、ものを切る時に、ナイフが良いのか、ハサミが良いのかという、そういう話になるのです。道具には用途があります。裁縫で糸を切るのにナイフは不向きですが、ケーキを切るにはハサミでは効率が悪過ぎます。ツールは、そのように用途におうじて良し悪しが判断されます。
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