「言語はツールにすぎない」という大いなる誤解 簡単さや効率性を求める結果起きてしまうこと
私たちが話している日本語をツールと考えることで、国語科について提起されている、文学国語か論理国語か、といった訳のわからない選択が生まれてしまいます。
つまり、ツールとしてどちらがより良いか、という選択の対象になってしまいます。何かのためのツールだったら、より有効な方が良い、より役に立つ方がいい、つまり、より効果的に使える方がいい、という発想になります。そこに落し穴があります。
ここで、あらかじめ私の見立てを述べておきます。目下の議論において、「論理国語よりも文学国語が大切だ」と主張しても、「両者の区別が不適切である」と言っても、もしツールという見方の上に立って発言するとしたら、有効な批判にはならない、いや、結局は相手と同じ土俵に立っていることになるのではないでしょうか。
そのような議論なら不要ですし、かえって墓穴を掘ることになりかねません。それゆえに、問題を根本的に考え直す哲学からの反省が必要となります。
根底にあるのは人間を「道具扱い」する発想
ツールであるということの含意を、もう少し掘り下げて考えてみましょう。ツールである以上は、何かの目的のために使うわけですから、当然効果をねらうことになります。
その場合には、例えば、理解力とか、読解力も含めて、特定の目的のための手段として、効果が測定されます。
「何とか力」という言葉を文科省は大好きなようですが、力というのは、この場合、その人が持っている本来の善さというよりは、何かをするための道具とみなされています。ギリシア哲学では本来の善さを「アレテー」と呼びます。
この言葉は通常「徳」や「卓越性」と訳されますが、その人や物が持つ本来の力を発揮することを意味します。花が美しく咲くとか、鳥が空を自由に飛ぶとか、そういう例です。それに対して、道具とは、もともとは持っていないものを外から付け加える、そのような力です。
ツールとして役に立つことばは、持っていたほうが良い、身につけるべきだという理屈になります。仕事に就いた時に読解力がなかったらそもそも契約書を読めないでしょう、といった発想です。
そんな発想は、基本的にはツールとして、効率という観点だけでことばを取り扱っています。結局、そこで目指されているのは労働力なのです。
経済界、産業界が大学で、あるいは高校で教育をしてくれと求めているのは、いちばん効率よく、仕事がたくさんできる人材を作ってほしいということに尽きます。つまり基本的に、ことばは道具扱いされている。それによって、私たち人間も道具扱いされています。
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