──戦後、帰国した杉原は外交官の仕事を続けられませんでした。それはビザ発給に関する訓令に違反したためというのが通説です。
外務省は、杉原への懲戒処分はなく、47年に依願退職していると説明すると同時に、「勇気ある人道的行為を行った」としています。研究者らからは「人員整理による退職」「実質上のクビ」という2つの見方があります。
ただ、「ユダヤ人にビザを発給して後悔などまったくしていないし、それが外務省をクビにされた唯一の理由とは考えていない。自分でクビになるのを覚悟した行動だから、クビになっても恨む相手もいないんだ」と伸生氏に話しています。また、杉原は亡くなる直前まで、外務省の現役職員やOBなどで構成される「霞関会」の会員で、新しい職場や住所などを会報に投稿しています。これらを見ても、外務省と確執や軋轢があったとは考えにくいのです。
考えにくい外務省との確執や軋轢
前述のように、ビザ発給はクビを覚悟しての行動だったのは明らかです。杉原は自らの行動に責任を持ち、ほかに転嫁しない潔い人間でした。外務省に対するわだかまりはなかったと考えられます。
──杉原がビザを発給した当時の状況はよく知られている反面、避難民が日本に至る過程、日本に来て米国など第三国に出国するまでの状況はよく知られていません。
ビザを受け取った後、避難民たちはソ連国内を移動しましたが、ソ連では国民も国内移動が厳しく制限されていました。それなのに避難民が移動できたのは、外貨収入を増やすというソ連政府の思惑がありました。40年当時、避難民がシベリア鉄道で通過すれば150万㌦、現在の円に換算して135億~144億円の経済効果があったとする研究もあります。
──ようやくたどり着いた日本。その玄関口が敦賀でした。
避難民が入国した当時の状況は残された新聞記事でわかるのですが、市民たちがどう受け止めたのかといった証言がほとんどありませんでした。そこで地元の歴史愛好家の集まりである日本海地誌調査研究会が聞き取り調査を行い、当時の証言を集めました。渡航する船上で流産した女性の治療に当たった医者がいたり、市民がりんごを提供したりと温かく迎えた様子が伝わってきます。敦賀市内の小学校では校長が「ユダヤ人は金持ちや学者、優秀な技術者が多く、今は戦争で国を追われて放浪しているが、落ちぶれた服装だけを見て彼らを見くびってはならない」と教えたという話もあります。
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