そこで、つぎのような考えが生まれます。
まず、高齢者や基礎疾患者は、隔離状態に置きます。
それら以外の人々については、社会経済活動の制限は、最小限にとどめます。
そして、ある程度の感染を許容します。
感染が拡大して医療崩壊に至った場合には、高齢者は見捨てます。これは、「トリアージ」(選別)と呼ばれる措置です。
スウェーデンでは、実際に、これに近い考えが採られました。
医療現場での個別的判断だけでなく、都市のロックダウンを行わないなど、社会全体としての政策にも、その考えが反映されました。これを「社会的トリアージ」と呼ぶことができるでしょう。
私は、こうした政策には断固反対です。
医療崩壊の意味がわかった
沖縄やスウェーデンやトリアージのことを考えていたのは、春のことです。ところが、最近になって、日本でもすでに間接的な社会的トリアージが始まっていると考えるようになりました。
そう考えたきっかけは、私の近所の病院で、新型コロナウイルスのクラスターが発生したことです。
40人程度の感染者が発生したようです。一部のテレビでは報道されましたが、新聞に記事が現れません。地域版にも記事がでません。
外来には影響がなかったからということのようです。外来患者への通知もありませんでした。
つまり、この程度のことは、もはやニュースにもならない「当たり前」のことになってしまったのです。今年の春であれば、大ニュースだったでしょう。
ところで、この件があったため、この病院の外来診療は、当面休止になってしまいました。ここは地域の中心病院なので、多くの人が診療を受けられなくなりました。その大部分は高齢者です。
コロナによる医療逼迫とは、コロナ患者の病床が不足することだけでなく、通常医療ができなくなることでもあると、改めて認識しました。
コロナ感染を免れたとしても、そのほかの病で命を落とす確率が上昇しているわけです。
こうしたことによって死亡したとしても、コロナとの間に直接の関係があるとはみなされません。したがって、問題視されることもないでしょう。これは静かに進行する危機です。
いままでも、病院でクラスターが発生した場合には、こうしたことがあったのでしょう。しかし、身近な問題とは感じられませんでした。いま事態が変質しつつあると感じます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら