日本人が知らない「ミッキーマウス」誕生秘話 ディズニー帝国成功の秘密は「4つのC」にあった
ですが、幸福な日々は続きません。農場経営は次第に悪化し、経営を巡ってイライアスと長男、次男が対立、2人は農場を去ってしまいました。悪いことは重なるもので、父が肺炎に倒れてしまいます。こうなると、農場を支えるのは三男のロイでしたが、ロイは当時16歳、とても農場経営などできません。ほどなく、農場は競売にかけられました。
家や農機具はもちろん、育んだ家畜も売られていき、8歳のディズニーは、愛した動物たちと悲しい別れをしなければなりませんでした。彼はロイとともに、去りゆく動物たちに泣きながら別れを告げます。
動物たちとの楽しい日々と痛切な別れ、両極端な体験が偉大なるクリエイター、ウォルト・ディズニーを形成したのです。マーセリーンで過ごした3年間は彼にとっては宝物となり、40年の時を隔てロサンゼルスに所有する土地にマーセリーンにあった納屋を建てました。
映画のために「150万個のギャグ」を考案
その後、一家はカンザスシティに移り、イライアスは新聞配達店を経営します。ディズニーは新聞配達の仕事を手伝わされましたが、手伝ってもイライアスは一切、給料も小遣いも払ってくれません。そこで、ディズニーはアルバイトをして稼ぎます。稼ぐ目的は美術学校に入学したかったからです。
やがてイライアスはシカゴに戻り、ゼリー工場を経営します。そのころのディズニーは、昼は地元の高校に通い、夜は美術学校で学びました。好奇心旺盛な彼はボード・ビルショーにも通い、漫画に使えるギャグをノートに書き溜めます。1940年にアニメ映画を制作するころには、書き溜めていたギャグの数は150万個にもなっていたそうです。
1914年、ヨーロッパで第1次世界大戦が勃発します。ディズニーは陸軍に志願しますが、年齢が若いということで、赤十字の衛生兵として戦地に赴き、負傷兵の手当と輸送に従事しました。ちなみに、同じ衛生隊には、マクドナルド・ハンバーガーを世界的なチェーンに展開させたレイ・クロックもいました。
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