日本人が知らない「ミッキーマウス」誕生秘話 ディズニー帝国成功の秘密は「4つのC」にあった

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帰国後は父の工場を手伝うことはせず、漫画家になるべくカンザスシティに向かいます。カンザスシティに行ったのは、地元の銀行に勤めていた兄ロイを頼ってのことです。ロイは、アートスタジオでの広告デザインの仕事を紹介してくれました。

ここでディズニーは、後にパートナーとなるアブ・アイワークスと出会います。不運にも2人は、そろってアートスタジオの契約更新をされず、クビになりました。そこで、彼らはデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を立ち上げます。

とにかく食べていかなければと、ディズニーは短編アニメーション映画の制作を始めます。制作した映画を劇場主に売り込み、好評を得るとフィルム・アド社の社長に定期的にアニメ映画の制作を持ちかけます。しかし、色よい返事はもらえませんでした。それでもディズニーは、アニメ映画の制作に手応えを感じました。すぐには商売にはならなくても、勇気(Courage)を持って制作を続けようと決意します。決意すると、自信(Confidence)もわいてきました。

資金回収できずいきなり倒産を経験

ディズニーは、家族、友人などから資金を集め、アニメ制作会社を設立、アイワークスと5人のアニメーター、アシスタントで、アニメ制作に乗り出しました。

まずはおとぎ話をアニメ化します。自信を持って売り込むと、ニューヨークの映画配給会社が気に入ってくれ、6本の映画を注文してきました。幸先のいいスタートに会社は喜びでわき立ち、物凄いスピードで完成させ配給会社に送ります。

しかし、喜んだのも束の間、なんとその配給会社は倒産、代金は未回収となってしまいます。発足間もない会社には甚大な影響で、会社は倒産してしまいました。

途方に暮れたディズニーでしたが、ピンチをチャンスに変えようと奮闘します。思案の末、彼が選んだのは実写映画の制作でした。折よく、ロイがロサンゼルスに住んでいました。ディズニーはロイに連絡を取りハリウッドに向かおうとします。ところが、会社を倒産させた彼には汽車賃もありません。

そこで、かろうじて残っていたムービーカメラで赤ちゃんを撮影し、その両親に売るという商売を始めました。これはうまくいき、汽車賃を得ることができました。1923年、ハリウッド行きの列車に飛び乗ります。

しかし、現実は厳しく、無名の田舎青年を映画監督に雇ってくれるスタジオなどありませんでした。失意のディズニーに、兄ロイはアニメ制作に戻るべきだと諭します。映画監督になりたい一心だったディズニーは、継続(Constancy)を怠っていたのです。ロイの言葉に耳を傾け、長らく閉じたままだったスケッチブックを開きます。

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