175年に1度のグランド・ツアーへ
次に、ボイジャーの36年の旅の足跡を振り返ってみようと思う。
双子の探査機が地球を旅立ったのは1977年で、僕が生まれる5年前のことだった。このタイミングで打ち上げられたのには理由がある。一般に「惑星直列」などと呼ばれるのだが、木星・土星・天王星・海王星がだいたい1列に(といっても90度ほどの幅があるが)並ぶまれな配置にあったためだ。
このタイミングで探査機を打ち上げると、4つの惑星を順番に訪れる、「グランド・ツアー」と呼ばれる軌道を取ることができる。このような機会は175年に1度しか訪れない。スプートニクによって宇宙開発の歴史の幕が開けたのがそのたった20年前だから、本当に幸運なタイミングで惑星直列が起きてくれたわけだ。
木星に着いたのはそれから約1年半後、1979年のことだった。ここでボイジャーがした大きな発見のひとつは、木星の衛星・イオの活火山だ。ボイジャーが撮ったイオの写真をよく見てみると、なんとそこには、数百キロの高さまで噴煙を上げる活火山がいくつも写っていたのだ!
それまで宇宙とは、単純な重力の法則のみに支配された静的な世界だと思われていた。この宇宙観は、ダイナミックにマグマを吹き上げるイオの火山の発見によって完全に覆されたのである。
木星からエネルギーを分けてもらったら、次は土星に
さて、ボイジャーは木星を通り過ぎる際に、その重力を使って2つのことをした。ひとつは土星に向かうように進む方向を変えたこと。そしてもうひとつは、ちゃっかりと木星の運動エネルギーを分けてもらって、約10 キロメートル/毎秒 (時速3万6000キロメートル)もの加速をしたことだ。
そんなに運動エネルギーを奪ってしまったら木星が落ちてこないかと心配されるかもしれないが、心配はいらない。木星はボイジャーに比べてとてつもなく重いので、だいたい時速0.00000000000000000001キロメートル (10のマイナス20乗キロメートル)ほど遅くなったにすぎない。この差は1ミリの距離を進むのに10兆年もかかる速さでしかない。ゾウがアリを弾き飛ばすようなものである。
木星からエネルギーを分けてもらった双子のボイジャーは、次に土星に向かった。到着はボイジャー1号が1980年11月、2号はそれより1年弱遅れた1981年8月となった。仲良く一緒に旅をしてきた姉妹は、ここで別々の道を選ぶ。姉の1号は土星の衛星・タイタンの近くを通った後、そのまま高速で太陽系の外へと向かう軌道を取った。一方、妹の2号はスイングバイによって天王星へと向かう軌道を取ったのだった。
独りぼっちになった2号は、それから4年と少し経った1986年、太陽系第7惑星の天王星に到着した。僕が4歳の頃で、残念ながら記憶には残っていない(ちなみに1985年の阪神優勝の記憶も、誠に遺憾ながら、ない)。現在のところ、天王星を訪れた探査機は、後にも先にもボイジャー2号だけである。そして再度スイングバイを行い、2号は海王星に向かった。
海王星到着は、3年強後の1989年、僕が小学1年生の頃である。この記憶は強烈に残っている。著書のプロローグに書いたが、父はこのとき、テレビにかじりついてボイジャーを特集した番組を見ていて、僕もその横に座ってそれを見た。
テレビの画面に映っていたのは、透き通るような青い色をした、美しい星だった。6歳の僕の心に刺青のように彫り込まれ、その後に僕を宇宙工学の道へと導いたのは、あの青だったのである。
そして、今回の著書の表紙の背景として使われている写真こそが、あのときに僕の将来を決定づけた、ボイジャー2号が撮った海王星の写真なのである。たった1枚の写真は、ひとりの人間の人生を左右する力を持っているのだ。
あれから24年。ボイジャー姉妹が孤独に宇宙を旅し続けている間、小学1年生だった僕は30歳になり、そしてボイジャーの生まれ故郷であるJPLで働くことになった。
JPLでの勤務初日に、僕は冒頭で紹介したDSNのコントロール・ルームに行き、ボイジャーからの電波を宇宙の彼方から受信しているさまを見た。それはあたかも、小学生1年生の頃の自分からのメッセージが、24年の時を超えて今の自分に届いているようだった。
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