「京都に死ぬほど憧れた」女子が捨てなかった夢 「更級日記」の筆者が本当に伝えたかったこと

✎ 1〜 ✎ 28 ✎ 29 ✎ 30 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて、むらさき生ふと聞く野も、蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓持たる末見えぬまで高く生ひ茂りて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺あり。
【イザ流圧倒的訳】
武蔵の国にたどり着く。マジで面白いトコない。海辺も白砂じゃなくて、泥みたいだし、紫草がこの辺りに咲くというんだけど、どこよ?蘆や荻ばっか高く生えていて、馬に乗った人の持つ弓の先すら見えないありさま。その中をかき分けていくと、竹芝という寺がある。

文学を介して想像していた景色と、目と鼻の先に見える現実の間にあるギャップはあまりにも大きい。サラちゃんは、旅中に同じような落胆を度々経験することになるが、その一つひとつのがっかりは、作品の根底にあるテーマを裏付けるものになっている。「物語を信じて夢を見ていた私はバカだった」と。

『更級日記』に記載されている場所をすべて地図に並べて、旅の行程を研究した学者もいるが、どうも順番が入れ替わっているところや、当時の交通事情を考えると実際行けたかどうも怪しいところがあるそうだ。

本作は晩年の作品なので、記憶が曖昧になっていたことも考えられるけれど、重要なポイントになっているその「がっかり感」を強調するために、サラちゃんがあえて地名の順番を操作している説が有力。

「武蔵の国」でサラちゃんが聞いた物語

文学に対する不信感が日記の中でじわじわと募り、やがて心から愛していた物語もウソっぱちであることが明らかになる。都会に住めても、宮仕えに出ても、源氏様のようなカッコいい人はいないし、『万葉集』に描かれているような、メラメラ燃え上がる情熱もありやしない。そして、鳴かず飛ばずの残念な人生を歩み終えたサラちゃんは、最後に仏教に安らぎを求める。

しかし、それは本当に彼女が言い残したかったメッセージなのだろうか。それを確かめるべく、いったん何の変哲もない場所、武蔵の国に再び戻ってみよう。

高く生い茂る蘆や荻に隠れた竹芝という寺に着くと、少女は何気なくその寺院の由来を尋ねるが、現地の人は強いなまりで素敵な伝説について語り始める……。

昔々、武蔵の国から派遣されて、都で火焼屋の兵士だった青年がいた。当時は街路灯がなかったので、兵士たちが火を灯し、偉い人たちの夜を守っていたわけだが、それは中々大変な仕事だった。疲れ切った青年は誰も聞いていないと思い、故郷に思いを馳せて愚痴をこぼす。

「などや苦しきめを見るらむ。わが国に七つ三つつくり据ゑたる酒壺に、さし渡したる直柄の瓢の、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ」とひとりごちつぶやきけるを、そのとき、みかどの御むすめ、いみじうかしづかれたまふ、ただひとり御簾の際に立ち出でたまひて、柱に寄りかかりて御覧ずるに、このをのこの、かくひとりごつを、いとあはれに、いかなる瓢のいかになびくならむと、いみじうゆかしくおぼされければ、御簾を押し上げて「あのをのこ、こち寄れ」と召しければ……。
次ページ青年はなんと「ぼやいて」いるのか
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事