駅名読める?京阪の要衝「中書島」の波乱万丈 舟運で栄え京阪の主要駅になったが衰退も
中書島の衰退は明らかだったが、伏見というマクロな枠組みで見れば人口は増加し、経済も堅調だった。そのため、伏見は市制施行を模索する。明治末期にも伏見市を模索する動きはあったが、その際は実現に至らなかった。
昭和期に入って、再び伏見市を実現する動きが活発化。町長だった中野は明治期に却下されたことを踏まえ、「将来的に京都市と合併する可能性もある」という搦手(からめて)を使った。1929年に伏見市を実現。そして、初代市長には町長の中野がそのまま就任した。
市に昇格したことで学校の新設・増築や中書島公有水面埋め立て工事、水害対策、道路の新設といった予算が増額された。中野市長は埋め立てで造成した土地を遊郭に売却することを計画。その売却益で、中書島の振興策を考えていた。
しかし、遊郭への売却はうまくいかず財政を悪化させた。皮肉にも、それが伏見市を実現する際に約束していた京都市と合併する引き金になり、わずか3年足らずで伏見市は幕を下ろす。
特急停車駅として復調
戦後、京阪は本線機能の強化に努めた。線路や設備の改良に取り組み、待避線の新増設や併用軌道区間の解消、高架線化・複々線化によって、大阪―京都間の所要時間を短縮する。それに伴ってダイヤを改正し、特急は増発された。
京阪間の移動は以前とは比べようもないほど便利になっていくが、中書島駅は特急が通過するダイヤのままで、その恩恵に与(あず)かることはなかった。追い討ちをかけるように1970年には市電が廃止され、中書島駅前は寂しくなる一方だった。
中書島駅が復調する兆しは、宇治線との競合関係にあった奈良線の変化によってもたらされる。1991年、奈良線は快速運転を実施。翌年には、JRの六地蔵駅が新設された。JRが奈良線に力を入れはじめると、京阪は対抗するために平日朝の淀屋橋駅行き特急のうち通勤時間帯の朝6時と7時台の6本を中書島駅に停車させるようダイヤを改正。さらに、2000年には終日にわたり特急が停車するようになった。
駅舎と駅前広場も2004〜2005年にかけてリニューアルを実施。特急停車駅としては小ぶりだが、歴史ある街並みと調和した駅舎になった。舟運で栄え、鉄道開業以降も結節点としての機能を担ってきた中書島駅は、明治末期から平成初期まで雌伏の時を過ごした。長かった夜が明け、中書島駅に再び光が当たろうとしている。
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