駅名読める?京阪の要衝「中書島」の波乱万丈 舟運で栄え京阪の主要駅になったが衰退も

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京都電気鉄道の開業がきっかけとなり、電気鉄道を求める声は全国各地の大都市からもあがるようになった。電気鉄道は最先端都市の証しと目されるようになり、名古屋・川崎・東京と全国で開業が相次いだ。

中書島駅の近くには「電気鉄道事業発祥の地」の碑がある(筆者撮影)

北垣の取り組んだ琵琶湖疎水によって、京都には多くの工場が立地。これにより京都は復調していたが、その一方で新たな社会問題も発生していた。市民の間でもっとも深刻な問題とされたのが、井戸水の汚染対策だった。当時の京都では井戸水は日常の飲用水として使用されており、暮らしに欠かせない水質改善は、行政にとっても焦眉の急だった。

1904年に西郷隆盛の長男・菊次郎が京都市長に就任すると、京都の成長戦略として三大事業を掲げた。西郷市長が掲げた三大事業とは、1:より多くの水と電気を得るための第二疏水の開削、2:衛生的な水を供給するための上水道の整備、3:輸送力を増強するための道路の「拡築」の3つだった。

とくに三大事業の肝とされたのは3だった。道路の拡築は交通容量の増加に対応するだけではなく、歩車分離という事故防止という意味も内包していた。また、拡築された道路の下に上水道を敷設し、その上には市電を走らせることも想定していた。

市電との接続駅になった中書島

それゆえ、西郷市長は拡幅という用語ではなく、新たな概念として拡築という言葉を創作。それほどまでに道路の拡築に心血を注いだ。こうして拡築された道路すべてに市電が敷設され、1912年には京都市電が運行を開始した。

京都には、すでに民間の京都電気鉄道が運行されており、電車の運行を任せることもできたが、西郷市長は市営にこだわった。それは道路の拡築費用を市電の収入で賄うつもりだったからだ。

京都電気鉄道と京都市電、両者がかち合うのは時間の問題だった。京都電気鉄道は1067mm軌間で、対して市電は1435mm軌間。市電のほうが軌間は広く、そのために輸送力も優っていた。

市電が京都電気鉄道を駆逐するのに時間はかからず、1918年に京都電気鉄道は市電に統合されて幕を閉じる。京都電気鉄道は1914年に中書島駅まで延伸開業したが、統合後も市電が路線を引き継いだから、中書島が不便になることはなかった。紆余曲折を経て、中書島は鉄道と船、両方の要衝になった。

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