国道16号沿い好んで住む人が多いのは当然な訳 都市と郊外の住宅街と身近な自然が合わさる

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ポケモンのゲームの世界から、現実の16号線に戻ってくると、共通点がいっぱい見えてくる。

いくつもの街を道がつなぎ、それぞれのエリアには異なる街と異なる自然がある。田尻の育った町田市には、ホタルが飛ぶ鶴見川源流域の豊かな森と谷があり、神奈川・横須賀や千葉・富津に足を伸ばせば、三浦半島、房総半島の美しい海辺が目の前に広がっている。野田や川越あたりは、江戸川や荒川の河川敷が横切っている。

ポケモンが、日本の子供達のみならず、世界中の子供達の心を掴んだ理由。そのひとつに、おそらくゲームプレーヤーが動き回る「舞台」装置に魅力があるから、とは考えられないだろうか。

そこで、このゲームを産んだ田尻智の育った16号線エリアの土地、地形に思いをはせてみる。

16号線エリアには3万年以上前の足跡がある

拙著『国道16号線 「日本」を創った道』でも詳しく解説しているが、国道16号線エリアには、この道が実際に貫通する1963年より遥か昔から、3万年以上前の旧石器時代から、日本にやってきた人類の足跡が営々と残っている。縄文時代でいうと、東京湾沿いに日本最多数の貝塚が見つかり、古墳時代には16号線の北側の埼玉に関東最大の古墳群があった。

奈良時代以降は、朝廷に献上する馬を育てる牧がたくさん存在し、関東武士団が形成され、源頼朝の蜂起も16号線エリアの武士たちが後押ししたから成功した。鎌倉幕府も16号線エリアである。室町時代に武将が群雄割拠し、戦国時代への突入の端緒を開いた主な舞台もこの地域だった。

江戸幕府末期から生糸貿易が日本の近代における最大の産業となったときも16号線エリアの横浜港と生糸集積地の八王子が重要な拠点であり、富国強兵の拠点として開発されたのも16号線沿いの横須賀港であった。軍用の航空基地も16号線沿いの台地に建設され、戦後それらが、米軍基地になった。

高度成長期には、膨張する東京の人口を吸収するニュータウンがこの道沿いに次々と生まれ、16号線自体は、首都圏と日本の経済活動を支える大動脈となった。バブル崩壊後は、モータリゼーションに対応した、郊外型ショッピングモールやディスカウントショップの誕生と発展の道となり、そしていま、また子育て世代の人口が増えつつある。

旧石器人を呼び寄せた16号線エリアからは、数えきれないほどのコドモたちが育ち、大人になった。縄文人も、弥生人も、古墳時代の人も、渡来人も、武士も、殿様も、町民も、農民も、商人も、サラリーマンも、いまポケモントレーナーである現代のコドモたちも、だ。

なぜ、この道に古代からずっと今に至るまで人が集まり続けたのだろうか? 

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